「何でもないホームドラマが生きられない時代になったって思うんですね。だったら、もうやめてもいいなっていう気がします」

 フジテレビ系『ノンストップ!』でそう話し、引退報道かと騒がれた脚本家の橋田壽賀子氏。’76年に放送されたNHK『となりの芝生』、’83年の同・『おしん』、今でもおなじみのTBS系『渡る世間は鬼ばかり』などを手がけた、ホームドラマの名手だ。

 実際は引退ということではなく書きたいものを書くという意図で発言したものだったという。だが、橋田氏が語った“何でもないホームドラマが生きられない時代”という言葉は、実に的を射ているとメディア評論家の宝泉薫さんは指摘。

「昨今放送されているドラマ全般において、家族をテーマにした“何でもないホームドラマ”というものは少なくなってきているように感じます。特に、嫁姑を題材にした作品は少ない。若い人にとっての時代劇と同様に、共感して楽しむ対象ではなくなった。“歴史を学ぶもの”に近い感覚なのかもしれません」

 ひとつ屋根の下にたくさんの人が集う“大家族”を体験したことのない人が増すにつれ、家に対する意識も変わってきている。

「嫁姑関係に軋轢(あつれき)があるという概念がマイナー化してしまった。そのため“わかる~”“スカッとする!”などの同調も得られないのです。また、現代のお姑さんは感覚の若い方が多い。ホームドラマにイヤな姑が出ていても“おばさんくさい”“みっともない”などととらえたり“こんな人、本当にいるの?”なんて笑い飛ばしてしまったりする。それでは3か月放送される連続ドラマのテーマとして、耐えきれません。

 しかし嫁姑は、女性の根底に根深くある問題なのは確か。和泉節子や羽野晶紀などの芸能人の嫁姑問題や、嫁姑の確執バラエティー企画が重宝されるのは、ニーズがあるからです」(宝泉さん、以下同)

 もともと、嫁姑関係を描いた作品はホームドラマの“本流”ではない。

「家族愛にあふれ、さまざまな困難を乗り越えるのが王道のホームドラマ。嫁姑というテーマは、家庭の中に敵がいるという意味で、いわば支流なのです」

 それでも人気を博したのは、たくさんの共感を得たためだ。

嫁姑ドラマの走りは’70年代

 先駆けはもちろん、橋田壽賀子氏の『となりの芝生』だった。

「橋田氏はこのドラマで、それまであったホームドラマの価値観をひっくり返したのです。アットホームで心温まるストーリーが多かった時代に、嫁姑の確執を描くことで、その平和を打ち砕きました。橋田氏はのちに“自分の経験を生かしている”と語っています。嫁姑問題のリアルを社会に知らしめたこの作品は、多くの視聴者から共感を得ました」

 自身の経験を反映した橋田作品はリアリティーがあり“夫の家に嫁が入る”という結びつきだけではなく“夫と妻、そこに付随する夫側の家族と嫁側の家族、渦巻く人間模様”という様相を提示したのだ。

 ’77年からはフジテレビ系『ライオン奥様劇場・嫁姑シリーズ』でも全9作品が放送された。

女性の社会進出が進んだ’80年代

 続く’80年代は、’70年代に比べると、いかにもドロドロな嫁姑バトルをテーマにしたドラマは減った。

「その背景には女性の社会進出が挙げられます。またバブル時代であったために、ドラマを放送している時間帯にみんな外へ出ていたのでしょう」

 そんな中でも嫁姑関係のリアルを切り取ったのは、やはり橋田ドラマ。NHK大河ドラマ『おんな太閤記』、朝の連続テレビ小説『おしん』も主婦の支持を得た。

 特におしんでは、嫁姑対決の舞台になった佐賀県から“イメージダウンになりかねない”とクレームが入るほどのイビリだった。

「“開墾をしろ”という姑に対して“髪結いで稼ぎたい”というおしん。これは、“郷に入っては郷に従え”という姑の精神に火をつけたでしょうね。おしんの、自分の仕事をするという自己主張を貫く姿は当時の嫁世代に受け入れられて、平均視聴率は52.6%。テレビドラマ史上、最高視聴率を記録しています」

【写真】橋田氏が脚本を手がけたTBS系ホームドラマ『渡る世間は鬼ばかり』
【写真】橋田氏が脚本を手がけたTBS系ホームドラマ『渡る世間は鬼ばかり』

 そして、いよいよ『渡る世間は鬼ばかり』が登場ーー。

『渡る世間は鬼ばかり』で幕を開けた’90年代

 ’90年代は多くの嫁姑作品が放送された。’90年開始の『渡る世間は鬼ばかり』、’92年のNHK朝の連続テレビ小説『おんなは度胸』、’93年のTBS系『ダブル・キッチン』が代表例。宝泉さんが解説する。

「『渡る世間は鬼ばかり』『おんなは度胸』は、いわゆる大家族もの。飲食店や旅館をテーマにすることで、多くの人の出入りを描きました。『おんなは度胸』では嫁をねちっこくイビる姑、『渡る世間は鬼ばかり』では大姑にイビられる嫁として、いずれの役もこなしたのが泉ピン子。決して美人女優ではないため、多くの視聴者が、イビられる嫁・五月に自分を重ね合わせやすく、イジワルな姑・キミのイビリに耐える五月を見て、自分も歯を食いしばることができた。彼女でないとこなせなかった役でしょうね」

 野際陽子と山口智子がバトルを繰り広げたのが『ダブル・キッチン』。姑の野際は怒りだすと鼓を叩き、山口は物に当たり散らすシーンが印象的。当時、増え始めた二世帯住宅の話をうまくつかんでいた。ハマって見ていたという佐々木美帆さん(仮名・52歳・専業主婦)は、

「姑と見ていて気まずかった覚えがあります。わが家でも軽い嫌みはありましたが、ひどくはありませんでした。ただ、嫁姑がぶつかるシーンのたびに“私たちはこんなこと、ないわよねぇ~”なんて首をかしげる義母に、笑いそうになりましたね。それでも見るのをやめなかったおかげで、激しいイジメを受けなかったのかもしれません(笑い)」

 ’90年代の姑たちは、“嫁イビリをするなんて古い人間だ!”と思うようになり始めたのかもしれない。

「このころの橋田壽賀子作品での嫁姑関係に、視聴者はノスタルジーを感じるようになります。それは嫁が社会に出ず、夫の家に入るという時代錯誤な部分から。徐々に世相とズレてきたのです。そんな保守的な家庭環境と激しいイビリを見た嫁姑は、“わが家はここまでではない”と胸をなでおろしていたのかもしれません(笑い)」(再び宝泉さん、以下同)

 ’00年代もこの風潮は続いている。

「朝の連ドラ『純情きらり』や大河の『篤姫』でも嫁姑バトルは描かれていましたが、時代設定は現代ではなく、もっと昔。やはり、現代のものとしては受け取られず“こんな時代もあったのね”というような関心の持たれ方という印象です」

ファンタジー化した’10年代の嫁姑バトル

 ’10年代に入ると、新たな嫁姑関係が描かれるように。テレビ朝日系ドラマ『おトメさん』では、黒木瞳と相武紗季が演じた嫁姑は、それまでのイビる姑・耐える嫁という立場が逆転。

「そのうえ、黒木も姑の影を引きずり続けるという役どころ。ドラマのうえでの嫁姑問題は、確執の根深さにスポットを当てることが減り、“ネタ”としてコミカルに描かれることが多くなりました」

 結婚した女性たちの多くは、どこか根底に嫁姑関係のモヤモヤを抱えている。そのリアリティーをスパイスとして巧みに使い、’10年にフジテレビ系で放送された『花嫁のれん』や’14年の朝ドラ『マッサン』でも嫁姑バトルは演出上、欠かせないものとなっていた。

 しかし現代のように、女性たちの支持や共感を得づらくなったことで今後、嫁姑ドラマは絶滅してしまうかもしれないと宝泉さん。

「ドラマの変遷を追ってわかったのですが、嫁姑ドラマは少数精鋭。嫁をイジメる姑も、イジメられる嫁も、演じられる人が限られている。特にイビリ役は難しくて、初井言榮や赤木春恵、野際陽子のように、ただイヤな姑を演じるだけでなく、度量の大きさも見せなくてはならないので、演技力が大事なんです。そして何といっても、ドラマは脚本ありき。橋田氏が脚本を書かなければ、嫁姑ドラマは絶滅してしまうかもしれませんね」

 宝泉さんは、現代の嫁姑が共感できるようなテーマとして、こんな提案も。

「介護や相続という要素を含めた嫁姑ドラマがいいかもしれませんね。個人的には、『渡鬼』で、えなりくんが結婚した後の嫁姑を描いた作品をぜひ見たいのですが……」

 現代の嫁姑と同じくドラマの中でも“鬼”は身を潜めてしまっている。

(取材・文/小島裕子、本誌「嫁姑」取材班)