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被災から1か月後の石巻市立大川小学校

 東日本大震災から間もなく5年の節目を迎える被災地では、風化がとめどなく進む一方、いまだ多くの人が避難生活を強いられているのが現状だ。「3・11その後」を懸命に生き抜く人々の姿を追った。

 宮城県石巻市の大川小学校は新北上川沿いにある。追波湾からは約4キロ上流に位置する。震災当日、地震発生後に児童たちはいったん校庭に避難した。しかし、余震が続き、津波警報も出されていた。学校では、避難行動をとるまで約50分間かかった。

 川沿いの高台に児童を誘導し、移動していたところに津波が襲った。下校した児童を除くと、児童74人、教員10人が死亡・行方不明に。児童4人、教員1人が生還した。

 未曾有の自然災害だったから仕方がない犠牲だったのか。あるいは、避難できる可能性はあったのか。

「先生、山さ、逃げっぺ」

「こんなところにいると死んでしまうべ」

 亡くなった今野大輔くん(当時小学6年生)がそう言っていたと、生存児童が証言していることがわかった。ここで言う“山”は校舎の近くにある“裏山”を指しているとみられている。児童たちが登ったことがある場所だ。授業中にも登っている写真がある。

 ただし、市教委も、震災後に設置された『調査委員会』でも、大輔くんの証言を確認できないとして認定していない。生存児童の証言は報告書でカットされた。

 犠牲になった児童23人の19遺族は、県や市を相手に国家賠償を求めて、仙台地裁に提訴している。大輔くんの父親、浩行さん(54)もそのひとりだ。

「大輔は山に逃げないと死ぬと思っていた。生きたかった。今ごろ、“俺はなぜ死ななければいけなかったのか”と思っているはず。それを明らかにするのが親の務め。子どもの意見を、言いたいことを代弁したい。親にしかできません」

 一方、市では大川小の校舎を保存するか検討中だ。2月、市民からの意見を聞く公聴会があった。保存派、解体派の意見が聞かれる中で、十分に議論をしてほしいという声もあった。浩行さんはこう話す。

「まだ仮設住宅で生活している人もいる。落ち着いて考えられる状況ではない。保存をめぐる議論は、大川地区の復興協議会での話し合いを含めて2回目。結論を出すのは早いのではないか。無理やり決めれば住民が対立するだけ」

 震災で犠牲にならなければ、大輔くんは高校2年生になっている。浩行さんは「就職か進学かを真剣に考えていた時期だろう。なりたい職業を口にしていなかったが、10年後の自分にあてた手紙では“ゲームに関わる仕事をしたい”と書いていた」と話す。

 また、浩行さんは、高校の卒業式を終えたばかりの長女・麻里さん(当時18歳)と、次女の理加さん(当時17歳)も震災で失った。

「娘たちは結婚していたかもしれないし、孫ができていたかもしれない。そう考えると落ち込む。裁判もせず、校舎の保存問題もどうでもいいと思っていれば、ひたすら酒を飲んでいたと思う。震災直後は、自ら死のうとも考えた。今は病気や事故で“死んでもいい”くらいかな」

 3人いた子どもがいなくなった浩行さんは妻のひとみさん(45)と再び子どもをつくろうと、不妊治療で病院に通い続けた。しかし「1度着床はしたが、いい兆候がなかった」ので、自然に任せることにした。

 裁判はまだ途中だ。昨年11月、仙台地裁の高宮健二裁判長らが大川小校舎や周辺の裏山を視察した。遺族側が主張する裏山への複数の避難ルートのほか、実際に児童たちが誘導されたルートも視察。震災当日、スクールバスが待機していたことも説明した。

「現地視察から裁判が本格的になってきた。4月には証人尋問がある。教職員で唯一の生存者となった教諭は法廷に出てこないかもしれないが、早ければ夏ごろにも判決が出る。今がいちばん、頑張りどころです」

取材・文/渋井哲也(ジャーナリスト)