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講演会で指導死について話す大貫さん

 【指導死】一般に『指導』と考えられている教員の行為により、子どもが精神的、あるいは肉体的に追いつめられて自殺すること。

 2000年9月30日、埼玉県新座市で中学2年生の少年が自宅マンションから飛び降り、若い命を失った。前日、学校で長時間の生徒指導を受けた直後のことだった。

 真相の究明もされず、周囲から冷たい視線にさらされた両親。ある出会いをきっかけに立ち上がった。

 先月、東京都内の施設で、コピーライターの大貫隆志さん(59)が講演した。テーマは『指導死』。生徒指導を直接の原因、あるいはきっかけとした子どもの自殺を指す言葉だ。'07年に大貫さんが名づけた。

 '00年9月、埼玉県新座市で当時中学2年生だった次男の陵平くん(当時13)が10階の自宅マンションから飛び降り自殺した。学校で生徒指導を受けた翌日のことで、ほかに思い当たる理由がなかった。

 '08年9月、大貫さんは文部科学省への申し入れを機に『指導死遺族の会』(現在の『指導死親の会』)を作った。以後、全国から寄せられる悩みを聞き、教育委員会との交渉や裁判支援をしている。

 学校現場ではあまり話題にならない『指導死』だが、講演会には評判を聞きつけて参加した学校関係者も熱心に耳を傾けていた。

「陵平が死んじゃった!」

 '00年9月30日深夜、母親から大貫さんに電話で連絡があった。病院からの公衆電話で、切羽詰まった声だった。

「え? そんな、嘘だろ?」

 2か月前に離婚して、大貫さんは前妻と2人の子どもたちと別々に暮らしていた。電話では詳しい話を聞かなかった。そのため、以前に病院の検査で見つかった「しこり」が悪化したのだと思った。

 大雨が降っていた。

「運転中はワイパーを最速にしていたんですが、自然と涙が出て、前方が見えにくくなったんです」

 40分後、病院に着いた。病死だと思っていたが、警察がいてマンションから飛び降りたことを聞かされた。

 陵平くんは人なつっこいが負けず嫌いな子だった。背は小さいが、父親の影響で小2からオートバイに乗り、レースにも出場していた。

「誰かがお腹が痛いと思ったときに使ってほしい」と、学校に薬を持っていったりもする優しい子だった。

 小さいころから家族で一緒に登山をすることも多く、標高3106メートルもある長野県の北穂高岳にも登った。

「夜中、満天の星空に目を輝かせて喜んで」(大貫さん)

 亡くなる1か月前、陵平くんとその兄を栃木県内の大貫さんの実家に連れて行った。

「私はあまりできないのですが、キャッチボールをしました。これが最後に遊んだ記憶です。小さいときから、陵平はひざの上に乗ってきました。そのときも、ひざ枕をして甘えてきました」

 大貫さんは自殺の理由がわからないでいた。母親との関係は良好だったはずだ。一緒に住んでいないことで何かあったのか、何か見過ごしたのか。それとも学校で何かがあったのか?

「中学校は長男が通っていたころは荒れていて、廊下を自転車で走っている生徒がいました。でも、陵平のときにはもう沈静化されていた。生徒指導で管理が強まったのも一因でしょう」

 中学では野球部に入った。当時、顧問の暴力行為が問題になり、ラジオ番組で取り上げられた。1年生の冬、顧問から「お前、誰がチクったのか調べろ」と言われた。同学年のまとめ役だった陵平くんは「嫌だ」と言って、部を辞めていた。

「今から考えれば、学校生活の圧力をいろんな形で感じていたのは確か。ほかの面も学校からの締めつけが厳しかったと思います」

 なかでもお菓子を持ち込むことへの指導は厳しかった。「お菓子を認めるとタバコにつながる」との考えで指導が行われていた。

 陵平くんの自殺後、大貫さんはすぐに「事実関係を明らかにしてほしい」と学校に申し入れていた。しかし、大貫さんと市教委、学校との話し合いができたのは10月30日。陵平くんが亡くなって1か月がたっていた。多少だが事実を知ることができた。

 亡くなる前日の9月29日。2年生のひとりがベランダでお菓子を食べていた。その後、廊下ですれ違った生活指導主任が匂いで気づいた。

 陵平くんのクラスでも担任が『帰りの会』で「ほかにお菓子を食べた者はいない?」と聞き取り調査をした。陵平くんは友達からお菓子をもらって食べたことを告白した。

 ほかのクラスを含めて生徒9人が教室の半分の広さの『会議室』に呼び出され、12人の教員が指導に当たった。

 「ほかにお菓子を食べた生徒はいないのか?」と教師に言われ、最終的には21人になった。指導中は生徒は立ちっ放し。1時間半に及んだ。指導の結果、生徒21人で『反省文』を書くことが宿題となった。そして、翌週の臨時学年集会でも決意表明をすることになった。

 翌30日、陵平くん以外の20人は再指導を受けた。陵平くんは、以前から通院していたあごのしこりの検査で学校を休んだ。午後9時過ぎ、担任から電話があった。お菓子のほか、ライターの持ち込みもわかったという。

「29日の指導で、ライターを持ってきている子がいることがわかった。陵平くんの名前も挙がっている。来週、お母さんも学校に来てもらうことになる」

 母親が陵平くんにこのことを告げた40分後、長男が大きな物音を聞く。10階の自宅マンションから陵平くんが飛び降りたのだ。部屋には『反省文』が置かれていた。

《ぼくは9月29日に昼休み中に××君たちとベランダに出て話をしていました。その時××君がハイチューを食べていて、僕も食べたくなってハイチューをもらって食べてしまいました。(中略)今ではなにをやっていたんだろうと思います。本当にすいませんでした。(中略)今後どのように罪をつぐなうか考えた結果 僕は2-5の教室を放課後できるかぎり机の整とんとゴミひろいをします》

 また、乱れた字で書かれたメモもあった。遺書だった。

《死にます。ごめんなさい。たくさんバカなことして、もうたえきれません。バカなやつだよ。自爆だよ。じゃあね。ごめんなさい》

 10月1日未明、陵平くんが亡くなったことを知った校長と教頭、担任が家を訪ねてきた。40代の女性の担任が反省文を見て「私にいただけないでしょうか?」と言った。大貫さんは怒った。

「動揺していたのか、生徒の大切なものだと思ったのかわかりませんが、意味がわかりませんでした」

 翌2日、臨時全校集会が開かれた。大貫さんと母親は生徒たちの前で、陵平くんへの思いを話す機会を得た。その後、担任は大貫さんに「学校やクラスで何かあったのでしょうか?」と聞いてきた。

 「何を言っているんだ!」と思った。むしろ、大貫さんが聞きたいことだ。神経を逆なでする対応が続いた。

 11月になって、学校側は「聞き取り調査をした」と言っていたが、そのメモを見せるように言うと、校長は「見せるわけにはいかない」と拒否。書いてあることを読み上げさせると、アドリブで指導内容を読んでいた。紙には何も書いていないことがわかった。

 12月、各学年のPTA役員と学校関係者が意見交換をする場が開かれた。校内暴力から立ち直ったことで評判がよく、学校側に立つ保護者の意見が相次いだ。

「今まで同様、いささかも揺らぐことなく、学校を全面的に信頼したい」

「この学校は本当に誇れるくらいにいい学校だと思います」

「学校がとった処置は正しいと思う」

 加えて、その場にいた母親がバッシングを受ける。その前にテレビのインタビューに答え、番組で放映されたことで、「なぜマスコミを使うのか?」と責められたのだ。四面楚歌だった。

 裁判も考えたが、学校からこれ以上の情報を得るのは難しく、ほかの生徒にもなかなか会えない。弁護士と相談し断念した。

「裁判をして陵平の友達に迷惑をかけるわけにはいかないと思った。ただ、あきらめる理由を探していたのかも」と、大貫さんは振り返る。

 陵平くんの遺骨は母親からひと欠片だけもらった。「思い出のある場所に」と、一緒に登った北穂高岳に置いてきた。

「生徒指導の後、子どもが自殺する。こんな理由で死ぬのは、うちの子だけ……」

 自分たちの育て方に問題があったのか? そうなると離婚さえも負い目に感じ、自問自答した。

 だが'06年2月、励ましてくれた人たちの紹介で学校事故などで子どもが亡くなった人たちの集まりに行った大貫さんは、同様の理由でほかにも子どもたちが亡くなっていることを知る。参加するたびに新しい事例を聞いた。

 その後、集まった人の中から「語り部になればいい」と言われたこともあり、『指導死遺族の会』を作ることになった。

 『指導死』の定義は、「『指導』と考えられている教員の行為により、子どもが精神的あるいは肉体的に追いつめられ、自殺すること」。暴力を伴う指導は広義の『指導死』としている。

 平成に入ってからだけでも同様のケースは63件ある。このうち85%は、指一本触れない生徒指導で子どもが自殺している。大貫さんは調査や相談を受ける中で、「指導死」の特徴が見えてきたという。

 その特徴は、①長時間(長いもので4時間45分)②複数の教員による③精神的な暴力を伴う④冤罪型の指導⑤密告の強要⑥連帯責任⑦目的からはずれる⑧不釣り合いの罰則⑨子どもを途中で1人にする⑩教育的観点のフォローがない、といったこと。

 特にほとんどの場合、フォローをしていない。「指導後にフォローするだけでも違う」と大貫さんは指摘する。

 『指導死』の遺族の話も聞きに行く。普段は冷静だが、フラッシュバックすることもある。2年前、ある指導死遺族と教育委員会に行ったとき、過去の悔しさを思い出したという。

「亡くなって15年以上がたちますが“まだこうなのか”と思いました。あのときの思いは消えない」(大貫さん)

 今月4日には、「教員による暴言・暴行によって不登校になった」という当時、小学生だった子どもの裁判で、証人尋問が行われた。中学生になった原告は泣きながら証言台で訴えた。

 亡くなったときの陵平くんと同じ年齢だ。傍聴席で見守っていた大貫さんは「言いたいことを主張できて、よかった」と言い、目がうるんだ。

取材・文/渋井哲也