今年3月に耐震補強を終えた原爆ドーム

 戦後71年、被爆者の高齢化が進み、体験を直接語り継ぐことが難しくなってきた。広島市は2014年から被爆体験を受け継ぐ「伝承者」を養成している。

 伝承者には365人が応募。すでに2期生まで、74人が講話を行っており平均年齢は62・2歳。関東や関西からの応募者もいる。今年は4分の1が県外からの応募だ。

 伝承者になると、平和記念資料館のほか団体などの依頼で講話をすることも。「子どもに焦土と化したなかで餓死した人もいたという話をすると、“どうしてコンビニでご飯を買わないの?”との質問がありました。時代背景を説明するのも大切です」(広島平和記念資料館)

無関心がいちばん恐ろしい

被爆前の広島の写真や地図を見せて、比較しながら解説する伝承者の生田さん

 市内に住む生田弘子さん(71)も伝承者の1期生だ。原爆投下時は生後2か月、自らも被爆者だ。爆心地から2・3キロ付近の家にいた。爆風でガラス窓が飛び散ったが、蚊帳の中にいたので、守られた。

「当時のことは覚えていないですが、その後の、原爆の傷痕は覚えています」

 生田さんは自分のことに少し触れた後で、引き継いだ証言者の体験を話し始めた。定時講話は45分間。自分や親族などの体験談をどこまで含めるかは、伝承者の判断に任されている。

「被爆者の中には語りたがらない人も多い。教えられるものはごく一部でしかない」

 それでも伝えなければいけないと思うのは、生田さんが「無関心がいちばん恐ろしい」と感じるからだ。

 被爆体験は多様だ。爆心地からの距離などでも違う。だからこそ、なぜ広島に原爆が落とされたのかという経緯も伝えている。

 生田さんが引き継ぐのは、爆心地から1・3キロ付近で被爆した女学生(当時17歳)の証言だ。建物の中にいたために助かったが、空襲による延焼を防ぐ「建物疎開」に行っていた妹(当時13歳)は亡くなったという知らせが届く。

 生田さんは、女学生の日記も引用する。当時を生きた若者の気持ちを伝えたいからだ。

「彼女が書いた日記が埋もれてしまうのは、もったいないと思っていたんです」

 定年まで学童保育の仕事をしてきた生田さんだが、若者に戦争体験が伝わっていないと感じる。

「“原爆って何のこと?”と言う子どもがいる。70年間続いた平和は、原爆投下と無関係ではないんです」

戦争は嫌だ、2度とあってはならないと言うのは当然

英語で講話をする清野さん。外国人の質問は鋭い傾向があるとか

 平和公園の近くに住む清野久美子さん(58)は元看護師だ。清野さんの母親が住んでいた中島地区は現在の平和公園内にある。自身も被爆2世の清野さんは、あるとき、母親の同級生が減ってきていると感じて伝承者養成事業に応募した。

「(被爆者である)母に改めて聞き、初めて知ったこともあります。原爆が落ちた当時、米兵がいたという話も母からポロッと出た」

 母親は当時15歳。爆心地から4キロ付近で働いていた。朝礼後、外出していたとき原爆が落とされた。相生橋でアメリカ人捕虜を見たのは、その翌日。自転車にまたがったままの姿で亡くなっていた兵隊もいた。

 清野さんは英語でも講話をしている。そのために英会話を習った。

「“やりなさいよ”という言葉で背中を押されました。英会話学校でも文章を見てもらっています」

 清野さんが伝える証言は、16歳当時に広島市内の学校の校舎内で被爆をした男性のものだ。この男性はすでに亡くなった。

 原爆が落ちたあと、建物の外にやっとの思いで出た男性は隣に爆弾が落ちたと思っていた。しかし見える範囲の建物はすべて壊れ、市内は火の海になり、遊び場だった丘も焼けていたのを見て、男性は「広島が死による」と呟いた。この男性はのちに中学の教員になり、清野さんも教わったことがあるが被爆体験を詳細に知っていたわけではない。

 今年6月、バラク・オバマ大統領が原爆を投下したアメリカの現職大統領として、初めて広島を訪れた。

「(アンケートに)カナダやオーストラリアから来たと書く人が多かったんですが、オバマさんの影響なのかアメリカから来たと書く人が増えました。“ごめん、ごめん”と涙を流したアメリカ人の女性もいました」

 憲法改正が囁かれるなど戦後日本が掲げてきた平和主義は岐路に立っている。

「過酷な体験をしてきた被爆者が、戦争は嫌だ、2度とあってはならないと言うのは当然だと思う」

 被爆者の体験を伝承者が語り継ぐことは戦争を記録し、考える材料になる。