保健所に送られる寸前だった傷だらけの野良犬を見るに見かねて連れて帰った生き物好きの女性。偶然の出会いが、一家と地域の運命まで変えた! 鰺ヶ沢の名物、焼きイカ屋さんで繰り広げられる“あばれどん”と“犬バカ”の愛情物語――。(人間ドキュメント・菊谷節子さん 最終回)

ブログをきっかけに一躍わさおに脚光が

右が奥さん犬のつばき。店の看板犬、看板猫、看板娘が勢ぞろい 撮影/竹内摩耶

 そんな心やさしいかあさんのもと、静かに暮らしていたわさおだったが、2008年、一躍、脚光を浴びることに。

 きっかけは鰺ヶ沢名物『イカのカーテン』を見に来た東大生が、わさおをブログで紹介したことだった。

「イカのカーテン越しに、“ワサワサした変な犬”がいたと言うんだ」

鰺ヶ沢名物『イカのカーテン』 撮影/竹内摩耶

 それまで、ライオンに似た風貌からレオという名前だったわさおだったが、東大生ブロガーが“この犬のことを『わさお』と呼ぼう”と紹介したところ、ネット上で話題に。

 評判を聞きつけた『99プラス(日テレ系)』が“ネットで話題のぶさかわ犬(ぶさいくだけれどかわいい)”とわさおを取り上げて放送したところ、言い得て妙な絶妙なネーミングも相まって、一気にブレイクした。本格的なわさお人気の始まりだった。

 2009年には、『現代用語の基礎知識』が“ツイッター”“スーザン・ボイル”と並んで、わさおを紹介。

 同年に、さらに驚くようなことが─。わさおと菊谷さんをモデルに、映画を作りたいとの話が来たのだ!

 菊谷さんがあのころを思い出し、うっとりした顔で言う。

「やって来た映画会社の人が三船敏郎の世話役だった人なの。いい男でねえ……。

 その人が何回も来て、“わさおは三船敏郎に似てる”と言うんだ。“三船は大根役者だけど、いざ映画に出ると、誰にもまねができない天才的なものがある。それがわさおにもある”って言うんだわ」

 世話役さんの男っぷりと、そんな口説き文句に負けてクランクイン。2011年2月、わさお自身が主演した東映映画『わさお』が地元青森で先行公開された。

 菊谷さんがモデルとなった“菊谷セツ子”役を演じるのは、なんとかつてのアイドルにして大スターの、薬師丸ひろ子だ。

「こんな田舎のさ、こんなばばが育てた犬が映画になんかなると思わないでしょう? もう腰抜かすぐらいびっくりしたわけさ(笑)」

 自らがモデルとなった映画を見たのは、鰺ヶ沢から車で30分ほどかかる、つがる市の映画館。

 バスをチャーターしての、一大ツアーだった。

 その日、かあさんはじめ、きくや商店のスタッフから友人知人、町内の人、はては鰺ヶ沢町の町長までのご一行は、どこか自分と似た面影の人物が次々に登場する映画を、心の底から楽しんだ。

 この不思議な犬は、東北の小さな町の人々を映画の登場人物にし、ひとつにする“かすがい”の役割まで果たしてくれたのだった。

お店をバックに、マネージャー役の工藤さん(左)、菊谷さん夫婦(中央)とお店のスタッフ。その場で焼いて食べるイカは最高に美味と評判 撮影/竹内摩耶

「わさおとわっしは運命の巡りあわせ」

犬小屋では、わさおと同じ秋田犬のチョメチョメが昼寝中 撮影/竹内摩耶

 今でもわさおは決しておとなしいとは言えない犬だ。犬小屋に近づく人にはしばしうなるし、ほとんどの人たちには、撫でることさえもさせない。

 だが2011年の東日本大震災の被災者慰問では、100人以上の子どもたちに撫でられ続けても、うなり声ひとつ上げなかった。今でも身体の不自由な人が店にやって来ると、痛んだ部分をやさしくなめて慰める。

 ライオンのように強く、人に媚びない気高さを持ちながら、傷ついた人・苦しむ人にはこのうえなくやさしい。

 このグッとくるほどカッコいい犬には、誰しも引きつけられてしまう。

散歩の途中、犬小屋の裏手にある海で海水浴。気持ちよさそう! 撮影/竹内摩耶

 映画の公開から5年たった今も、わさおに会いに、遠くは鹿児島や台湾からもやって来る。海水浴の途中に立ち寄ったという弘前大学のグループは、「わさおに会うのは今日が初めて。ぶすっとして、愛想のないところがいい」。

 青木理香さん(28)、未来さん(26)姉妹は、「テレビで見て知って会いにきました。テレビとおんなじでかわいい!」と語る。人気は衰えず、この7月には、写真集『グレ子とわさお』(主婦と生活社)が刊行された。

 日本中、いや世界中からわさお目当てにやって来る観光客に、七里長浜きくや商店も大にぎわいだ。

 見事な辣腕経営者ぶりと思いきや、鰺ヶ沢町観光協会副会長にして無報酬で菊谷さんのマネージャー役を務める“マイネジャ(津軽弁で駄目の意)”こと工藤健さん(49)は、

鰺ヶ沢町観光協会副会長で菊谷さんの“マイネジャ”を務める工藤健さん 撮影/竹内摩耶

「お金的には決して恵まれている人じゃないし、経営者って感じでもないですね。言ってみれば、“規模の大きな駄菓子屋のおばちゃん”。かあさんって人がいいところがすごくあるので、自然に人が集まってくる感じなんです」

 姉の文江さんも言う。

「妹が困ってると誰かしらが助けてくれるんだ。卵だって、キャベツだって、パンだって、みんな持ってきてくれて、それで不思議にも暮らしが立つんだわ」

 とはいえ、工藤さんいわく、菊谷さんは“絶対に後には引かない。行くか戻るかじゃなくて、行くしかない人”。

 わが子そっちのけで犬猫優先、映画の話が来ても躊躇しない女性との生活は、肉親にとっては痛し痒しの面もある。前出の長男・菊谷忠光さんが苦笑いしつつ言う。

「破天荒な母親ですよ。なんでこんなんだろうと。ほかの家っていいなあと思ったこと? そりゃ何回もありましたよ(笑)。正直、今もそう思ってます(笑)」

 人間たちのそんな声を知ってか知らずか、菊谷さんとわさおは今日もまったり、マイペースだ。

 毎朝8時、かあさんが運転する軽トラの荷台に乗って七里長浜きくや商店に出勤。隣にある犬小屋“わさおの家”で、奥さん犬のつばきとともにのんびり過ごす。

 だが、そんなわさおが1度、菊谷さんに本気で怒ったことがある。それは2014年、菊谷さんが肺炎で入院したときのことだった。退院して帰ってきて、菊谷さんが“わさお、わさお!”と呼びかけても、やって来ようともしない。

「“俺のこと、捨てたんだろう!”って、散歩に行っても後ろ向きになって来ないの。だから“わさお、おまえを捨てたんじゃないんだよ。ばあちゃん、肺を悪くして入院していたんだよ”って。そう言って2週間ほど散歩させたら、ようやっと来るようになったな」

 人間と犬の関係も、おそらく人と人の関係と変わらない。

 怒って許して、またケンカして許す。それを繰り返しながらお互いの理解を深め、愛を深めていくのだろう。

◇   ◇   ◇

「わさおを飼うまで、秋田犬を育てたことがなかったの。だけど、とにかく(同じ秋田犬の)ハチ公が大好きで、オヤジより好きだったの(笑)。そしたら最後にこういうふうに、秋田犬と巡りあわせてくれた」

 だがそんなわさおとも、いつかは別れの日がやって来る。先日、グレ子が旅立ってしまったように。

菊谷さんに撫でてもらい、気持ちよさそうなグレ子 撮影/竹内摩耶

「わさおとの別れのことはまだ考えてもいないけども、今まで犬を40年近く育ててきて犬にも猫にも、1日1日、自分のできることを精いっぱいやってきたの。犬たちにエサをやらなきゃならないから、店だって365日、休みなんかない。私、温泉旅行にも行ったことないんだよ。

 そんなふうに自分のできることはヒタヒタになるまでやってきたから悔いはない。だからその時が来たとしても、悲しくはないの」

 わさおとかあさん、そして犬猫たちの関係は、人とペットというのとはちょっと異なる。ベタベタしないし、猫かわいがりもしない。そのかわり、朝から晩までいつも一緒。いわば、相棒同士といった存在だ。

 そして、この動物たちの最高の相棒は言う。

「命あるものは最後まで面倒見るのが人間として当たり前でしょ? 私はいいことしているとは思わないよ、当たり前のことをしているだけだ。動物は自分の子どもと同じ。自分の子どもと思って飼わなくちゃ、だめなんだあ」

 ああ、ここで暮らす犬猫は、本当に幸せだ─。

※「人間ドキュメント・菊谷節子さん」は3回に分けて掲載しました。第1~2回は関連記事の中にあります。