細胞分裂の様子

 2014年の秋のことだった。別居中の妻が妊娠していることを知人から知らされた夫は、「7年間、性交渉をしていないにもかかわらずなぜ?」と不審に思い、妻を問いただした。しかし、その口をついて出た言葉は、父親は紛れもなく自分である、という事実だった。

 その謎は、すぐに解けた。

 夫婦が第1子を産む際にクリニックに保存していた受精卵を、夫に内緒で移植し妊娠したと妻が打ち明けたのだ。

 ともに45歳の元夫婦は'04年に結婚、体外授精を行い'11年に第1子を出産した。その後、夫婦の関係が悪化し、'13年10月から別居。'16年10月に離婚が成立したが、第2子は2人が婚姻関係にあった'15年4月に誕生している。

 元夫の男性は'16年10月、第2子との親子関係不存在の請求を奈良家裁に提訴。さらに同年12月には、クリニックを運営する医療法人と元妻を相手取り、2000万円の損害賠償を求め、奈良地裁でも訴訟を起こした。昨年12月に開かれた第1回の口頭弁論では親子関係を認めないとする男性側の主張に対し、女性側は子どもとして認めるべきだと争う姿勢を示したという。

 元夫の代理人の弁護士は、

「依頼者は、子どもに不利益だけはないようにと悩みに悩んで、このままでは同じことが日本で繰り返されると、提訴に踏み切りました。電話1本でも確認してくれれば防げたのに、と話しています」

 電話1本─。もしクリニック側が夫に、「奥さんが受精卵の移植を希望していますが、同意していますか?」と電話をしていたら、こんな事態は起こらなかった。

進歩する生殖医療、整わない法律

 日本では現在、生殖補助医療に関する法律が整備されていない。にもかかわらず、生殖補助医療は日進月歩で進歩している。

 日本産科婦人科学会(日産婦)が集計したデータによれば、'14年に日本で体外受精により誕生した子どもは4万7000人となり、年間出生数が約100万人であることから、21人に1人が体外受精により生まれたことになる。世界一の不妊治療大国に、法律がまるで追いついていないという皮肉。

 現場の医師のよりどころになっているのは、日産婦の倫理規定だ。

 現在の『ヒト胚および卵子の凍結保存と移植に関する見解』には、施術実施ごとに夫婦の同意が必要だとされている。

 日産婦の元理事長の吉村泰典慶應大名誉教授は、

日産婦元理事長の吉村慶大名誉教授

「胚移植に関しては、'88年に日産婦が示した見解で、すでに今回のような問題が起こることが予見されていました」

 と指摘しクリニック側の対応を次のように批判した。

生まれてくる子どものことを考えると、クリニックが同意を取る、確認するということは、医療者として最低限やるべき義務なんです。

 生殖医療というのは、子どもを産むための技術であるが、最も大切な子どもの同意を得ることはできないんです。だからこそ、子どもの不利益にならないようにしなければいけない

 別居中の夫婦は、お互いの同意のうえに大切な命を産む選択を怠った。その行き違いを、前出・元夫の弁護士は、

「女性側は、年齢を考えるともう1人子どもが欲しかった、と話しています。男性は、離婚をするのに子どもをつくる必要はない、と答えていたようです」

 と説明する。

 夫に相談すれば当然、反対されることがわかっていた妻は、年齢という出産リミットを横目に、自らの歯止めを見失ってしまったのか。

 医療現場からは、次のような声も聞かれた。

 生殖補助医療を専門とする順天堂大学医学部附属浦安病院の菊地盤先任准教授は、

順天大浦安病院の菊地盤先任准教授

私たちは、女性からの情報を信じて治療を行っていることがほとんどです。女性側に悪意があれば、いくらでも起こることで、明日はわが身なんです

 と、確認の難しさを訴える。同意書の筆跡が夫のものであるかどうか、病院に一緒に来た“夫”が本当の夫かどうか、「究極をいえば、奥さんが持ち込んだ精液が旦那さんのものかどうかなんて、私たちには確認のしようがないんです。卵子は私たちが採取しますから問題はありませんが」(前出・菊地先任准教授)

 前出・吉村名誉教授も、

「私たちは夫婦だと話す患者に、“本当にそうですか?”と問うのは越権行為ですし、人間の関係性なんて私たちにはわからない。やはり医療は性善説にのっとり行われるべきものだと私は考えます」

 過去、生殖補助医療をめぐり裁判に発展した事例がある。

 不妊治療を行ったが、なかなか妊娠に至らない高齢夫婦の場合。ある日、妻が夫に内緒で他人の精液を使用し、人工授精を行ったところ妊娠に成功し出産した。当初は喜んだ夫だったが、その後、子どもとの血縁関係に疑問を抱き提訴に踏み切ったという。夫の主張は認められた。

 一方で白血病の夫の凍結保存された精子を使用し、夫の死後、遺言に従い妊娠出産した妻の場合。最高裁は民法に想定されていないと、父子関係を認めない判断を示した。

 医療人類学を専門とする明治学院大学の柘植あづみ教授は、法律の不備がトラブルを生んでいると指摘する。

明治学院大学の柘植あづみ教授

海外では今回のような問題が30年以上前に起こり、生殖補助医療に関する法律がほとんど定められています。日本でも法律は必要です。日進月歩の生殖医療には法律だけでは不十分で、医師や患者だけでなく一般の人々にも生殖医療に関心を持ち、議論を深めることも大切です」

 表面化したのは初めて、という今回の奈良家裁の事案。元夫は事前に病院へ連絡をするべきだったという指摘も。

「自分の遺伝子を使った受精卵が残っているということを考えれば、責任が問われる可能性を理解しておくべきです。これは今回の男性に問題があるわけではなく、社会の意識が低いことが問題です」

 と菊地先任准教授は受精卵への責任について指摘する。

 冒頭に触れた裁判の行方を『弁護士法人・響』の徳原聖雨弁護士は、

生物学的な親子関係と法律上の親子関係は違い、民法では婚姻中の夫婦の間に生まれた子どもは、その夫婦の子どもであると推定することになっています。現在は離婚しているとはいえ、男性側の主張は認められないのではないでしょうか。賠償額についても、過去の判例に照らし合わせて考えると、100万円から200万円程度になるものと予想します」

 とはいえ、司法の判断次第では、子どもが法律上の父親を失うこともありうる今回の裁判。親の身勝手な思いが、子どもに深い傷を負わせることにもなりかねない。

 40年以上、生殖補助医療に携わり、夫婦の喜びや苦悩を目の当たりにしてきた前出・吉村名誉教授は、不妊治療がもたらす現実に今も思い悩むことがあるという。そして静かな口調で、こう訴える。

子どもをつくるということはどういうことか、医療者にも夫婦にも国にもよく考えてほしいと思います