昨年7月、惜しまれつつ亡くなった大橋巨泉さん。テレビの黄金時代を築いた天才は、思いどおりの人生を楽しむ天才でもあった。大橋さんの生涯を、遺族、愛弟子、盟友たちの言葉で振り返る──。
大橋巨泉さんのお別れの会には、芸能界のみならず各界から錚々たる顔ぶれが訪れた

 昨年7月12日、『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などの名司会で知られ、現在のテレビの潮流をつくったひとりであるタレント・大橋巨泉さんが亡くなった(享年82)。巨泉さんはそれまでの日本ではタブーとされてきた競馬や麻雀をはじめとした、大人の文化や娯楽をテレビ番組で取り上げた人だ。

 がんとの闘病生活を送っていたが、時折メディアにも登場し、ご意見番としてしっかりと自分の意見を語る姿を見せていただけに、突然の訃報に多くの人が悲しんだ。その中で「巨泉さんがいなかったら今の自分はない」と語るのはタレント・小倉智昭さん(69)。

 小倉さんは29歳のときに巨泉さんにスカウトされ、以来40年間、巨泉さんの経営する大橋巨泉事務所(現オーケープロダクション)に所属した愛弟子であった。自身もフジテレビ『情報プレゼンター とくダネ!』で帯番組をもつ最年長の司会者として活躍中だが、巨泉さんのことを“天才”と称する。

「自分の好きな道を貫き通す人はたくさんいるけど、臨機応変に変化しながら、常に先端を行ける人はそうそういない。そういう意味で巨泉さんは天才でした。番組もタレントとしてただやるんじゃなくて、プロデュースしていました。ワガママで自分の思いどおりにならないと収録の途中でも帰っちゃうような人だったけど……僕らそんなことしたら、もう仕事が来なくなりますからね!(笑)でも、常に30%の視聴率を取っていた。僕はそんな数字、とても取れるとは思えない。だから巨泉ならぬ“小泉(こせん)”と言われたりしました。

 だけど、“俺が自分の事務所に引き抜いたのは小倉が最初で最後”と言ってくれて、晩年も“小倉も頑張ってくれてるから”と言ってくれていた。仕事に対する姿勢や生き方すべてに影響を受けた人です」

 芸能以外でもギフト・ショップ経営など海外事業で成功を収め、日本でいち早く“セミリタイア”を実践し、がん闘病もオープンに語っていた巨泉さん。常に新しい方向性や価値観を提唱し、最後まで存在感が衰えることがなかった。

 今回はそんな巨泉さんの生涯を身近な人たちのインタビューをもとに振り返り、知られざる素顔にも触れてみたい。

退院直後の悔やまれる「5日間」

「大橋さん、どこで死にたいですか?」

 昨年4月初旬に国立がん研究センター中央病院から退院した巨泉さんに在宅医療の医師は突然そう尋ねた。

 その言葉に、巨泉さんの弟で、オーケーエンタープライズ社長を務める大橋哲也さん(74)は大変驚いたという。

オーストラリアにて。妻・寿々子さんと弟・哲也さんに囲まれて

 実はこのときCTに映るがんはなく、通院の負担がないようにと自宅で看護を受けることになっていたのだ。

「そんなこと聞くなよと思いました。まるで死の宣告でしょ! そのときの兄は自宅でスーちゃん(巨泉さんの妻・大橋寿々子さん)の美味しい料理を食べて、気力や体力をつけてカナダへ行くつもりだったのです」

 退院したときは、CT検査の結果を受けて、生きる英気を蘇らせていた巨泉さんだったが、その言葉で一気に気力が落ちてしまったという。

 巨泉さんがやせて出っぱった背骨が痛むと訴えると、医師は痛みが出たら必ず飲んでくださいとモルヒネ系の強い鎮痛剤を届けた。巨泉さんはその薬を飲み続けたところ、急激に衰え、歩行もままならなくなり意識も薄れて、5日目に以前かかったことのある病院に緊急入院となった。

 すぐに意識は取り戻したが、巨泉さんの記憶は18日間も不明瞭で、結局その病院で緩和ケアを受けながら過ごすことになった。

「兄は“もしカナダでがんが見つかったら、俺、カナダで死んでもいいんだよ”と話していました。でも、たった5日間で全く予定外の展開になってしまった。本当に、あの5日間だけが悔やまれる……」

 哲也さんがそう語る。

 巨泉さんの妻で元女優の大橋寿々子さん(68)は、「今日も一緒に来ました」と言って大きな包みを自分の隣の席に置いた。それは巨泉さんの御骨が入った袋で、肌身離さず持ち歩いているという。

 寿々子さんも治療経過の書き記してあるノートを手にしながら、その在宅医療の医師の言葉が許せないと語る。

「言葉に殺されたと思っています」

 2005年に発症した胃がんに始まり、2013年にステージ4の中咽頭がんとその転移、2度の腸閉そくなど病魔と闘ってきた巨泉さんであったが、その医師の言葉に、がんセンターからのデータに自分が聞いてないことが書いてあったに違いないと思い、その日から目に見えてガクッとしてしまったと話す。

「ステージ4の中咽頭がんが見つかったとき、“先生、治りますか?”と主人が聞いたんです。すると先生が治ります! とはっきりおっしゃってくださって、それで“よし、闘う!”と元気になった。実際に中咽頭がんは治していただきましたし、そのひと言は大きかったです。在宅医のひと言は、逆の意味で大きかったのです」

 寿々子さんは巨泉さんが亡くなる前の3か月を過ごした病院で、毎日5時間、寄り添っていたという。

「いつも私が夜8時だから帰るねと言うと、“いやだ”と駄々をこねて。しかたなく諦めると目をそらして寝たふりをしていました……」

 穏やかな表情で気丈に話す寿々子さんが、たった1度、言葉につまった瞬間だった。

終戦直後に聴いた「ジャズ」

裕福なカメラ商の長男として生まれた。小学校1年生、両国の実家の庭にて

 巨泉さんは、1934(昭和9)年、東京・両国で5人兄弟の長男として生まれた。本名は大橋克巳(カツミ)。巨泉というのは中学生から始めた俳句の俳号で、その後もジャズ評論などでペンネームとして使っているうちにこの名が有名になってしまった。

 生家はカメラ商を営み、当時では珍しい自家用自動車を持ち、毎週末、銀座などへ観劇や外食に行くような裕福な家庭であった。父は勤めながらドイツやアメリカの情報を学び、カメラを製造販売する会社を興した努力家で、読書好きの寡黙な人だったという。一方、母は生粋の江戸っ子。頼まれると冠婚葬祭のカメラマンを買ってでるような活動的な女性で話し好きのタイプ。巨泉さんは自分は母方の直系であると語っていた。

 戦時中、一家は千葉県に疎開し、巨泉さんが小学校6年のとき終戦を迎えた。皇国史観を叩き込まれ、天皇陛下のために命を捧げることを真剣に考えていた軍国少年は、価値観の180度転換に混乱する。亡くなるまで一貫して反戦を唱え続けた巨泉さんは、

「あの戦争がいかに無謀で、僕たちが教わったことが間違いだったかを悟った。黒を白にするような逆転は2度とできない。戦後民主主義者の原点がここにあります」

 そう折に触れて語っている。

 終戦直後、押し入れの中から毛布にくるまれたジャズレコードを見つけた。それは出征した叔父のもので、敵性音楽の非難を逃れ隠されていたのだった。

「それまで軍歌ばかりの中で育ったので、心が浮き立ち、手足が勝手に動いてしまうような音にすっかり惹きつけられてしまいました」

 この感動が巨泉さんをのちに芸能界へと歩ませるきっかけとなる。

「口八丁手八丁」で英語がペラペラ!

 家族とともに両国へ戻った巨泉さんは近所の日大一中、一高に進学する。家業を手伝いながら、御茶ノ水のアテネ・フランセに通い、音楽を通じて関心をもった英語を習った。そして1952年、早稲田大学政経学部新聞学科に合格する。

 

 大学の同級生で、元『主婦の友』編集長・高森二夫さん(84)が学生時代の巨泉さんの様子を語ってくれた。

「新聞学科特有の“英字新聞購読”という科目があったのですが、ジャパン・タイムズの社長とか編集局長が講師として来ていました。あるとき講師がここはこういうふうに訳すんだと教えてくれたら、大橋が“先生、僕はそれよりもこう訳したほうがいいと思うんですがどうでしょうか?”と言った。そのくらい自信があったんですね。それでさすが新聞社の大物だなと思ったのは講師が“うーん、なるほど。君の訳のほうがいいかもしれないな”と、ちゃんと引っ込んで、大橋を立てたんです。

 大橋は英語がかなりできたし、彼の性格が英語の言葉に適していたんじゃないかな。口八丁手八丁で!(笑)自由闊達に先生と意見を言い合えるような雰囲気があって、いい時代でした」

 巨泉さんは新聞学科の勉強や俳句研究会の活動は熱心に行ったが、自分の興味のない化学などの教養課程の単位は必修であっても放棄してしまった。また、ジャズに傾倒していき、大学は4年生で中退した。

早稲田大学新聞学科のクラス会は忙しくても必ず出席。前列左端が元『主婦の友』編集長・高森二夫さん、右から3番目が巨泉さん

 ただ新聞学科の付き合いをとても大切にしていて、高森さんが卒業後60年間、幹事を務めたクラス会に毎年出席していたという。

「大橋の偲ぶ会には王貞治さんや河野洋平さんといった各界の著名人がたくさんいらしていた。そんな方たちとの交流があってさぞかし忙しかっただろうに、クラス会にいつも参加してくれていたことを改めてうれしく感じました。

 早稲田の新聞学科は50人足らずで、みなジャーナリズムの仕事がしたいというひとつの目標があったのでまとまりがよかったんです。卒業してからも何となく同じ方向を向いていました。もうほとんどのメンバーがあっちの世界へ行ってしまい、残っているのはほんのわずかになってしまいましたが」

伝説の深夜番組『11PM』に登場!

 学生時代からジャズファンの会報誌に寄稿するなどしていたが、ジャズ評論家として身を立てることを決意した巨泉さんは、大学中退後、知り合いのツテでジャズを専門とした月刊音楽雑誌『スウィング・ジャーナル』の原稿を書くようになる。また生演奏を売りものにするジャズ喫茶が登場すると、司会の仕事を頼まれた。曲の解説を加えながら、ユーモアを交えて進行する司会ぶりは評判となり、進駐軍倶楽部の仕事も入った。

 のちに巨泉さんが設立したプロダクションを引き継ぎ、約50年にわたり巨泉さんを支えた哲也さんが昔の思い出を語る。

「僕と兄は8歳離れていたので、子どものころはあまり一緒にいる時間はなかったんです。でも僕が大学時代、クラブ活動の連盟の関係で渡米することになり、お金がなくて行くかどうか迷っていたら、“哲、絶対行け!”と、10万円をポンとカンパしてくれました。

 自分だってアメリカへ行ったことがなかったし、ジャズ評論と放送作家のかけもちで余裕なんてなかったはずなのに。そんな頼れる兄貴でした」

 やがて巨泉さんが1000曲以上の歌詞レパートリーを持っているという噂を聞きつけ、日本テレビの音楽番組のディレクターが、画面に訳詞のスーパーをつける仕事を依頼してきた。これをきっかけとしてテレビの音楽番組の企画・構成をする放送作家として活動するようになる。

 1965年、日本初の深夜のワイドショーの企画会議に出席してほしいと言われ、日本テレビに出かけた。そこには永六輔、前田武彦、青島幸男ら第一線の放送作家がそろっていた。その番組とは、のちの『11PM』である。

 巨泉さんは、“仕事はいいことだが遊びは悪いこと”というのが通念の日本人に遊ぶことの大切さを知ってほしいと、これまでテレビで扱われなかった遊び、競馬や麻雀、ゴルフなどを取り上げたら?と提案したところ、“巨泉のなんでもコーナー”ができ、自ら出演することになる。そのころは今とは比べものにならないくらい保守的な風潮であったため、「テレビで麻雀とは何事か!」とクレームもきたが、おおむね「面白いじゃないか!」と好評だった。翌年、巨泉さんは番組の司会を任されるようになる。

「野球は巨人、司会は巨泉」

 司会者として頭角を現し、一躍売れっ子タレントとなった巨泉さんは10年目の1976年に代表作のひとつTBSの『クイズダービー』をスタートさせる。この放送は出演者が解答者の中から正解すると思う解答者を1人選び、自分の持ち点を賭けて得点を競うという競馬形式のクイズ番組だった。ユニークなしくみと巨泉さんと解答者とのやりとりがウケて人気番組となる。

 巨泉さんが解答者にあだ名をつけたのも奏功した。三択問題に強い女優・竹下景子には「三択の女王」、正解率が高い漫画家・はらたいらは「宇宙人」、よく正解するのに最後の問題で間違える漫画家・黒鉄ヒロシには「裏切りダヌキ」など。

元TBSプロデューサー・副島恒次さん(右端)は巨泉さんが「健康とプライベートは大事にしろよ」と話してくれたという

 当時、番組のプロデューサーだった副島恒次さん(75)は、巨泉さんの仕事ぶりをこう語る。

「巨泉さんはもと放送作家だったので、番組の構成やリズム感を考えながらやっていて、そういう人はあまりいませんでした。

 いつも巨泉さんの楽屋で、ディレクターとその日出題するクイズ問題の打ち合わせをしていたんです。巨泉さんが答えを伏せてやってみて、“ああそうか! これ難しいな”“じゃあ、はらくんは何倍くらいかな?”などと言って倍率をつけたり。それが終わると、解答者の楽屋へ行って、さりげなく“景子ちゃんはロンドンとか行ったことあるの?”と、その日が海外ネタだったりするとバレないように聞いてみたり、軽くアイドリングをしていました」

 そのころ巨泉さんは静岡県の伊東に住んでいて、週に4日間、東京に来て仕事をしていたという。

「“巨泉は遊んでいるという人がいるけど、そうじゃない。タレントというものは決められた日時にベストコンディションでスタジオに行くものだ”と話していました。そのためにはワインを飲んだり、釣りをやったり、俺には伊東での3日間が必要なのだと。実際、巨泉さんは本番に非常に機嫌よく現れて、よ~~っ!なんて調子でナチュラルハイでしたよ(笑)」

 当時のタレントは長い休みが取れないことが一般的だったが、巨泉さんは撮りだめをして夏休みを1か月以上とったので、それにともないスタッフも休暇が取れ、副島さんも毎年、海外旅行を楽しんでいたという。

愛弟子・小倉智昭さんを見いだす

 続いて大ヒットとなった『世界まるごとHOWマッチ』は、世界中の珍品、名品を現地取材つきで紹介し、値段を予想するクイズ番組で、巨泉さんと売り出し中のビートたけしとの毒舌トークが話題になった。

 ナレーションを担当し、この番組が出世作となった前出の小倉さんは当時を振り返る。

「東京12チャンネルの競馬中継のアナウンサーをしているときに声をかけていただいて、巨泉さんの事務所に入ったのですが、てっきり仕事をたくさんもらえるものかと思っていたら、そこが巨泉さんの実力主義なところで、最初は競馬以外まったくありませんでした。

 ハウマッチの仕事をもらえたときはうれしかったけど、出演者は石坂浩二さんやたけしさんなど個性派ぞろいだったので、当初、小倉のナレーションは普通でいいと言われました。それにほかにもナレーションの担当者がいたので、僕の担当は毎回1~2本しかなかった。

 あるとき、アドリブを入れて、甲高い声でまくしたてるようにやってみたら、巨泉さんの耳にとまり、“その声、面白いぞ、小倉はそれでいこう!”と言ってくれて……みなさんに知ってもらえるようになったのです」

傘寿を祝う会で司会を務めたタレント・小倉智昭さんを招いて石川県の温泉で

 小倉さんはこの後もずっとどこかに巨泉さんに褒められたいという思いがあって歩んできたと言う。

 巨泉さんは政治に対しても常に自分の意見を持ち、発信する姿勢を貫いていた。旧民主党の菅直人元首相から強く要請され、2001年7月の参院選に出馬、41万票超を獲得しトップ当選する。ところが自衛隊派遣の承認や安全保障法制などをめぐり党執行部と対立し、翌年1月に辞職する。当選からわずか半年足らずの幕引きに世間からは非難の声も上がった。

 小倉さんは、辞職にあたり、巨泉さんと中継をつないで『とくダネ!』で放送した。

「“巨泉さん、勉強不足だったんじゃないですか?”と尋ねたら、“厳しいな”と言われました。“また『とくダネ!』出して”と言われたから、そのときは“ダメです!”と言ったんです。巨泉さんに言いたいことが言えたのは、僕だけだったんじゃないかな?」

47年間最愛の妻とはいつでも一緒!

 私生活では1956年、22歳のときにジャズ歌手のマーサ三宅さん(83)と最初の結婚をした。2人の娘にも恵まれる。しかし巨泉さんの仕事がテレビへと移り、夫婦のベースにあったジャズから離れたことで、次第にすれ違いが生じるようになる。別居の末、’66年に離婚した。

 巨泉さんの次女で母親と同じジャズ歌手の豊田チカさん(55)は、巨泉さんとは2歳ごろから離れて暮らしたという。どんな思いを父に抱いていたのだろう。

「母は仕事をしていたので、私は祖母に育てられたんです。4~5歳のころ、祖母は父がテレビに出ると、“チーコ早くおいで、パパが出てるよ!”と私を呼んで、“パパは何でもできるんだよ、パパは日本一頭がいい人なんだよ”などと話していました。父とは一緒に暮らした記憶はないですが、祖母がそういうふうに言ってくれていたので、初めて父に招かれて会いに行ったときも、自然にパパ! と言えました。

 幼いときに別れたきり、お互いに嫌な部分を見ていないので、“可愛いチーコ”と“大好きなパパ”のままで、父とはラブラブだったんです」

 巨泉さんが14歳年下で女優だった寿々子さんと再婚したのは35歳のとき。出会いのきっかけは、ラジオ番組の共演だった。もう2度と結婚はしないと考えていた巨泉さんであったが、寿々子さんといるとただ楽しくその明朗さに惹かれた。2人はローマの古い教会で挙式する。そのときのことを巨泉さんは東京新聞夕刊のコラムにこう記している(『この道』1996年9月~1997年2月20日連載)。

《結婚者名簿にサインをさせられた後、神父にこう言われた。“貴方がたがたとえ日本の法律に従って離婚をしても、この教会ではまだ夫婦なのです。では長くおしあわせに”。通訳してやると女房は感激して、その日にでもカトリックに入信しそうであった。一方のボクは何だか一生この娘と一緒に居るような気がしていた》

 まさにその予感のとおり、それから巨泉さんは寿々子さんと47年間、片時も離れることはなかった。寿々子さんは海外ロケにもついて行き、巨泉さんが56歳でセミリタイアしてからは、365日、ゴルフをするのも食事をするのもいつも一緒だったという。

 巨泉さんはチカさんと姉の美加さん(ジャズ歌手の大橋美加さん=57)が小学生のころ、寿々子さんに引き合わせている。チカさんは“すごくやさしいお姉さん”と感じたそうだ。2人は寿々子さんを慕って“スー”と呼び、いい関係を築いてきた。

「私が豊田と結婚したとき、ひとつの区切りだと思ってスーをお母さんと呼ぶことにしました。それを父も喜んでくれました」

チカさんの亡くなった夫・秀明さん(写真左)は巨泉さんの早稲田大学俳句研究会の後輩だった

 実はチカさんは2年前に夫・秀明さんを急病で亡くしている。秀明さんは、チカさんと前夫との間に生まれた3人の息子たちをわが子のように育ててくれた。巨泉さんも秀明さんのことが大好きで、いつも“娘と孫がお世話になっています。ありがとう”と丁寧なメールを送ってきたという。

「父が亡くなる10日ほど前、最後に父のために何をしてあげられるだろうって考えたときに、お母さんを守るからねって言ったんですよ。

 父はすごい現実主義者で綺麗事が嫌いな人だから、そこで“お母さんのこと本当の母親だと思ってる”なんて歯が浮くようなこと言っても信用しないんで“パパは私がシングルマザーで大変だったときに助けてくれたよね? だから今度は私がお母さんのこと守るから心配しなくていいよ、うちの息子たちもついているからね”って言ったんです」

 それを聞いた寿々子さんは泣きだし、巨泉さんもじーっとチカさんの顔を見て、目には光るものがあったという。チカさんは、「パパは主人(秀明さん)と一緒にみんなのことを見守ってくれているはず」と語る。

「巨泉流」人生の愉しみ方

 1990年春、巨泉さんはレギュラー番組をすべて降板し、56歳で“セミリタイア”宣言をした。仕事をセーブして、生活の質を重視する生き方を実践したのだ。

「本当の幸せは名声を得ることでも、お金をもうけることでもなくて、自分の生きたい後半生を生きること」

 そう巨泉さんは40万部のベストセラーとなった著書『巨泉 人生の選択』の中でも語っている。春・秋は日本、夏はカナダ、冬はニュージーランド、オーストラリアと、一年を通して気候のいい場所を巡り、ゴルフ、釣り、競馬、美術鑑賞などを堪能した。

「でも、そのうち巨泉さんはセミリタイアは飽きたと言い出した(笑)」

 小倉さんにはこっそり“少し早すぎたかもしれないな……”と話していたとか。

「その後も番組にゲスト出演していましたけど、そのときも“出てやるよ”と(笑)。それでも声がかかるのが巨泉さんでした」

 寿々子さんがセミリタイア後の和やかな日常を語ってくれた。

「家ではやさしい人でした。可愛かったですよ、褒めるとダンスしてくれて(笑)。

 “哲がいないときに美味しいワイン飲もうな”って(笑)。近所に住む哲也さんが仕事帰りに寄ってくれて、ときどき一緒に食事をしていたんです。主人が“今日は哲が来ないから美味しいワイン開けちゃおう”とナイショで秘蔵のワインを開けてしまうのですが、結局空きびんを始末できないままにしていて、哲也さんに見つかっちゃって。“また俺抜きだよ、何それ?”と(笑)」

 巨泉さんは亡くなる3時間前、面会にきたチカさんの手を3回強く握ったという。最期は寿々子さんと哲也さん夫妻の見守る中、眠ったまま静かに息を引き取った。

 テレビが主役だった時代、黒ぶちメガネにえびす顔のその人は、しゃれたジョークと立ち振る舞いで大人の世界を見せてくれた。

「好きに生きてこそ人生だ!」

 その自身の言葉どおり、私たちが憧れる“自分の思ったとおりに生きること”を体現した人だった。

タキシード姿で寿々子さんとダンス。カナダのパーティー会場で

*参考文献:『巨泉 人生の選択』(講談社)『この道』(東京新聞)

*豊田チカチャリティー福島の子供たちへ「Big fountain of humanity」~パパ、ジャズっていいね~ 3月22日(水)TOKYO FM HALL
詳しくはhttp://chikajazz.com