日本アカデミー賞授賞式での宮沢りえ

 3月3日に開催された第40回『日本アカデミー賞』で、宮沢りえが最優秀主演女優賞に輝いた。3度目となる受賞に喜びの笑顔があふれたが、翌日は一転して悲しみに暮れることに……。

3月4日にアートディレクターの長友啓典さんが亡くなったんです。77歳でした。数年前に食道がんが見つかって一時は回復しましたが、昨年末から体調が悪化したようです。

 日本のデザイン界では大御所的な存在の彼は、四半世紀以上も前から、りえさんと親交がありました。彼女は長友さんを実の父親のように慕っていたようですね」(スポーツ紙記者)

 長友さんは'69年に黒田征太郎氏とデザイン事務所『K2』を設立し、華々しい活動を始める。

「'70年代から雑誌や広告などのディレクションで活躍し、グラフィックデザイナーとして第一線を走り続けました。書籍の装丁はもちろん、小説の挿絵も描き、ANAの機内誌『翼の王国』で連載していたエッセイも有名です。

 デザインの枠に収まらない才人で、日本の文化に与えた影響は大きかったと思います」(書籍編集者)

 りえが長友さんと知り合ったのは彼女が20歳のころだった。紹介したのは、東京藝術大学特任教授の伊東順二氏である。

長友さんは、りえちゃんの大ファンでしてね。たしか六本木のバーに集まったときに紹介したんだと思います。彼女はそのとき絵を描いていてそれを見た長友さんが“いい感覚を持っている”と言って指導をしたんです。

 あの人は心底いい人で、みんなに優しい。特にクリエイティブな人が好きで、彼女のそんなところを気に入っていたんだと思いますよ。彼女が絵を描き続けているのは、長友さんの指導があったからでしょう。指導といっても、“好きに描け”と言っていたんだと思いますけどね(笑)」(伊東氏)

 りえにとっては、34歳年上の長友さんが頼もしい存在だったのだろう。

「長友さんには子どもがいなかったので、りえさんを本当の娘のように可愛がっていたそうです。りえママとも仲がよく、頻繁に3人で食事をしていました。りえママが亡くなってからは、実の父娘のような関係になったといいます」(前出・スポーツ紙記者)

りえの人生に影響与えた長友さんの存在

 逆境に立たされたりえを支えたのも、長友さんだった。

「'96年に渡米してロサンゼルスに住んでいたことがあります。母親との確執が伝えられ、“激ヤセ”が取りざたされたころですね。

 彼女はもう日本には戻りたくないと考え始めていました。このとき長友さんは周りの出来事や天気などを書いて、毎日FAXを送ったんです。

 そうやって彼女を励まし、日本の様子を忘れないようにしてほしいという願いだったんでしょう。結果的に彼女はアメリカ永住を思いとどまり、帰国してからは映画やドラマで精力的に活動するようになりました」(テレビ局関係者)

 '03年に『たそがれ清兵衛』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞するなど、役者としての才能を開花させる。

「私生活も明るくなりましたね。親しい友人たちと月1で食事をする“珍獣会”を始めました。スタイリストのえなみ眞理子さん、薬膳料理家の吉野ゆかりさん、ファッションクリエイターの伊藤佐智子さんなど、華やかな顔ぶれです。もちろん美食家で知られる長友さんもメンバーでした」(前出・テレビ局関係者)

 '13年の4月7日には、東京・麻布でりえの40歳を祝う誕生日会を開いている。長友さんは、この日のブログでりえとの長い親交についてこう記していた。

'13年4月7日、都内で行われていた自身の誕生日会から出てくる宮沢りえ
'13年4月7日、都内で行われていたりえの誕生日会。長友さんの隣はヘアメイクのカリスマ黒田啓蔵氏

《“ちゃんづけ”で呼んでいたあのお転婆さんがいつの間にやら40歳とのことだ。こちとらも歳とる訳だ》

 4日後にはりえの娘の入園式があり、体調を崩していた彼女の母・光子さんに代わって出席していた。

'13年4月11日、長女の入園式に出席したりえ。りえママの姿はなく、親族として長友氏が出席していた

前の年にりえさんが夫と別居し、シングルマザーとして娘を育てる覚悟を決めていたときですね。それでもほかの園児たちは両親や親戚がついてきているので、母娘だけで入園式に出席するのは避けたかったのかも。

 長友さんは彼女の娘の4歳の誕生日にも、5歳の誕生日にも一緒にお祝いをしています。娘さんにとっても、父親のような存在だったのでしょう」(前出・スポーツ紙記者)

'13年2月に発売された長友氏、りえ&娘、日暮氏の4人の共同制作による絵本

 りえは、この年に『ふたりの12のものがたり』という絵本を出版している。りえの娘が描いた絵を使って長友さんが絵本に仕立てたのだ。彼女は長友さんの目の前で、できあがったばかりの本を娘に読み聞かせ、娘はじーっと耳をそばだてていたという。文章を担当したコピーライターの日暮真三さんが、彼女との思い出を語ってくれた。

「'95年に黒田征太郎と『拝啓 サクラさく』という本を作ったんです。本の中に“散ることを知りながら、咲くことを恐れない”という一節があって、りえちゃんには心にしみたようです。長友さんを介して電話をしてきてくれて、そこから仲よくなりました」

 日暮さんは何度も病床の長友さんを見舞っている。病室には、りえからの手紙が飾られていたという。

「彼女はエネルギッシュでタフだよね。お酒も飲むし、よく食べるしね。長友さんもグルメだったから気が合ったんでしょう。りえちゃんはお父さんを亡くした気分でしょうねそう思わせるだけの包容力のある人でしたよ。

 病室には、彼女の描いた1枚の絵も飾ってありました。色鉛筆を使った抽象的な絵で、回復を願う気持ちを表していたのでしょう」(前出・日暮さん)

 このたび、りえが3度目の最優秀主演女優賞を獲得できたのは、『湯を沸かすほどの熱い愛』の演技が高く評価されたからだ。

「彼女はひとり娘を持つ母親を演じています。夫が失踪して銭湯を閉めなければならなくなり、末期がんで余命2か月というダブルパンチ。

 それでも明るさを失わずに力強く生きるんですね。シングルマザーになった自分と重ね合わせる部分もあったのではないでしょうか。長友さんに受賞を報告することはかないませんでしたが、生涯をかけて女優として生きていく報告をしたのではないでしょうか」(前出・テレビ局関係者)

 長友さんは、これからも天国から“娘”の活躍を見守り続ける。