皇族、首相、国賓などのトップVIP担当CAとして100回以上の特別機フライトを経験してきた里岡さん。ANAを代表するスーパーCAとして活躍していたある日突然、病魔に襲われる……そこから見えてきた「今を生きる」ことの大切さと本当の気遣いとは──。

 ある日、都内のホテルで行われた女性向けの講演会。里岡美津奈さんは、会場を見回しながらにっこりと微笑み、来場者にこう語りかけた。

「理想の自分になりたい。そんな人ほど、自分磨きはほどほどに。なぜなら、自分磨きという矢をいくら磨いても、誰も “あなたは、もう磨かれましたよ” と教えてくれませんから。矢を磨いているうちに、どんどん年を重ねてしまいます」

里岡美津奈さん 撮影/渡邉智裕

 50代になり、ますます輝きを増す里岡さんに憧れる若い女性は多い。その中には、今の自分に何かしらの不満を抱き、ああなりたい、こうなりたいと理想を掲げ、それに向かって一生懸命に頑張る人は少なくない。そんな彼女たちに、「自分磨きはほどほどに」のひと言はドキッとするはずだ。里岡さんの真意は、こうだ。

「理想の人に会いたい。理想の仕事に就きたい。だから、理想の私にならなければと思うのかもしれませんが、 “いつかの私” を追い求めている限り、その日はやって来ません。いつかの私は、今の私を否定しやすい。でも、ほんとうは、今の私のままでいいのです。今の私のまま、目の前のできることに真摯に取り組む。その積み重ねが、結果として理想の私に近づくことになると思うのです」

 講演会のテーマは、「一流の女性になるために」「運を引き寄せる習慣」などさまざまだ。女性が自分らしく生きるために心に留めたい姿勢について依頼を受ける機会が増えているが、そのベースになっているのは、相手に対する態度、言葉遣い、おもてなしなどの「接遇」だ。

 実は、里岡さんは独立前は、約25年間、ANAのCA(キャビンアテンダント)だった。しかも、そのうち15年間は「トップVIP担当客室乗務員」として、皇室をはじめ、首相、海外の国賓の方々など、VIPクラスの特別フライトを100回以上も担当した、いわば “スーパーCA” 。CA時代から、「平常心」をモットーに、日々、できることをコツコツと積み重ねてきた。その経験をコンサルティングに、コーチングに、講演会にフルに生かしている。

 里岡さんの人生を語るうえで、「今この瞬間を、全力で生きる。ただし、平常心で」というのは、はずせないキーワードだ。「人との素晴らしい出会いに恵まれ、その連続で今の私がある」と語る彼女の半生をたどっていこう。

転機となった高校時代のホームステイ

引っ込み思案だった少女時代、中学2年生くらい

 幼いころから活発で、聡明な人だったのだろう。そんなイメージを抱いてインタビューすると、里岡さんは意外なことを口にした。

「おとなしくて引っ込み思案な子でした。社交的で目立つタイプだったのは、2歳上の姉のほう。私は、いつも彼女のそばにくっついて遊んでいました。でも、おませ。姉が好きだったベイ・シティ・ローラーズやジュリー(沢田研二)を聴いていたせいか、同世代の子が大騒ぎしているのを見て “子どもっぽいなあ” と思うことがありました」

 自分のどこか大人びた感覚と周囲の感覚のズレは、小さな彼女にとって、ある種の違和感があった。それは、自分をなかなか外に出せないという形で表れたのかもしれない。

 里岡さんは、愛知県岡崎市出身。脱サラ後に建築設計会社を設立した父、専業主婦の母のもとで育った。ときの首相は、田中角栄。日本列島改造論によって刺激された土地ブームも手伝い、父は一財を築いた。

「部屋には、九谷焼や伊万里焼などの焼き物などが飾られ、父はそれらの特徴やルーツなどを詳しく教えてくれました。自分で着物も着付けることができて、お茶も点てていた。本物に触れる大切さを教えてくれました。母は、自分は一切の贅沢をせず、倹約したお金を子どもの教育費にあててくれる優しい人でしたね」

 華やかな姉は、近所の人から「かわいいわね」「お利口さんね」とよく褒められる。そのたびに両親は、すかさず「みっちゃんも、かわいいよ。お利口さんだよ」と同じように褒めてくれた。娘たちを分け隔てなく愛してくれた。それは、里岡さんの自己肯定感を育んでいった。

 もっと、自分自身を表現していきたい。そう思える転機が訪れたのは、高校生になってから。学校が提携しているアメリカのカリフォルニア州にある高校に、夏休みを利用して約1か月、ホームステイに行ったのだ。1ドル230円近くする時代だったが、両親は快く送り出してくれた。

高校時代、ホームステイで目の当たりにした米国の同年代の少女たちの自由さに感動した

「アメリカでは、どの子も自分の意見を臆することなく発言する。必要以上に他人と比べることもない。ピアスをして、思い思いのファッションをして、自由に自分を表現しているように見えました。日本の同世代の子よりも大人っぽい考え方で、そこは自分に似ているなとうれしくなり、私もこんなふうに自分を出していいんだ! と思えました。そこから、少しずつ何をしたいか、どうしたいのか発言するようになっていきました」

家を出たくてスチュワーデスになる

 高校卒業後、短大に進学した里岡さん。就職することは考えていなかった。

「当時の女性は、花嫁修業のひとつととらえて短大に行く人もたくさんいました。就職しても結婚するまでの “腰かけ” ととらえる人は多かったですね。私も例に漏れず、短大卒業後は何をするでもなく半年間は実家にいましたが、だんだん親の結婚に対する “圧力” のようなものを感じ、 “このままうちにいたら、本当にお見合い結婚させられてしまう!” と、慌てて就職活動を始めました」

自宅で成人式の着物を着て。まだCAになることすら考えていなかった

 スチュワーデス(CAの当時の呼び名)に決めたのは、飛行機好きだった父のOKが出やすいと踏んだから。当時、「憧れの職業No.1」の業界だったが、里岡さんにとっては、親元を離れるための手段にすぎなかった。

 1986年、男女雇用均等法が施行された年に入社。これからの里岡さんの活躍を暗示するかのようなタイミングで働き始めた。

 親元から初めて離れて寮生活を体験し、3か月の研修のあとのフライトデビュー。さぞや舞い上がった気持ちになったかと思いきや─。

「淡々としていましたね。スチュワーデスへの憧れがなかったので、頑張らなくちゃ! という気負いもないし、あの人に負けたくない! という野心もない。ただ、 “与えられた仕事は、きちんとやろう。相手が期待している少し上ぐらいを目指していこう” ということは意識していました」

 里岡さんが駆け出しのころに心がけていたのは、「先輩のようなスキルはないのだから、せめて、身だしなみだけでもきちんとしていよう」ということ。服装、ヘアスタイル、お化粧などはいつも念入りにチェックしてフライトに臨んだ。

 そのこだわりが、すごいのだ。

 会社から支給されるスチュワーデスの制服は、フライト後にクリーニングボックスに入れておけばプレスされた状態で届く。当然、その状態でもきれいだが、里岡さんはプレスされた制服をビニールから取り出し自分でアイロンを当てなおし、次のフライトに備えてロッカーにかけておいたそうだ。

「家を出たい」不純?な動機でなったCAだったが……。入社2~3年目の23歳ごろギャレーにて

「母がよく、 “ちょっと手をかけるだけで洋服は輝き、質のよい素材に見えるのよ” と言っていたので、その教えを実践しました。実際、ピシッとアイロンをかけておくと、スーツもブラウスもなんだか仕上がりが違うように感じるのです。身だしなみを整えているときは、母とつながっているような気持ちになりました。 “里岡さんが着ている制服は、みんなとまったく違うように見える!” と、たびたび褒められました」

 この習慣は、その後もずっと続いた。里岡さんは、毎回、プレスされた制服に必ずアイロンを当てた。それはいつしか、「いつも、身だしなみが整っている人」という評価につながっていった。

 また仕事中は、「平常心」を心がけた。

「平常心」とは、ふだんどおり。すなわち、「感情が安定している」ということだ。

「人間ですから、好不調の波はあります。心に余裕があるときはなんでもうまくいきますが、恋人になかなか会えない、家族が病気になったなど、感情を揺さぶられるような出来事があったときは、それにとらわれてしまいますよね。でも、心に余裕のないときこそ、いかに早く気持ちの切り替えができるかが肝心だと思っていました」

 それは、ある人に「心はいつも中庸がいい」と教わったことを心に留めていたからだ。中庸は、『論語』の中の《中庸の徳たるや、それ至れるかな》という孔子の言葉だ。なにごともやりすぎてはいけない。かといって、遠慮しすぎるのもよくない。適度にバランスのいいことが最高の人徳だと示されている。

「要は “偏るな” という意味だととらえています。ポジティブなら右に振り切れ、落ち込んだら左に振り切れるような振り子のような感情では、気持ちがすり減ってしまいます。心ここにあらずになりやすいから、身だしなみも適当になり、仕事のミスも増えてしまいます。だから私は、なるべく中庸を意識しました。すると、どんな人と接するときもニュートラルな心で相手と向き合うことができるようになり、心地よくいられる時間が増えていきました」

入社9年目。トップVIP担当に選ばれる

 入社して9年目の春、里岡さんにとってキャリア上の大きな転機が訪れる。「トップVIP担当客室乗務員養成制度」がスタートし、その第1期生に選ばれたのだ。

 トップVIP担当客室乗務員とは、天皇・皇后両陛下、皇太子殿下同妃殿下、首相、国賓の方々が搭乗する特別機で接遇すること。5000人ほどいるスチュワーデスの中から、最終的に選ばれたのはたった5人。里岡さんはその中の1人になった。

「なぜ、私が選ばれたのか直属の上司に聞いてみると、 “里岡さんは、お客様の前で飲み物をこぼしてしまうといった単純ミスがほとんどありません。身だしなみもいつもきちんとしていて、言葉遣いや態度も落ち着いています。何かトラブルが起きても、動揺せずにふだんと同じように行動できる。すべての点において、いつも安定感があるところが評価されたと思います” と言われました」

チーフパーサー、トップVIP担当と順風満帆にキャリアを重ねた

 会社は、突出した何かを求めていたわけではなかった。それよりも、「いつも、安定している」ことを重んじたのだ。それはまさに里岡さんが入社以来、心がけてきたことだった。日々の仕事をコツコツと積み重ねる。中庸の精神で、お客様、周囲のCAにも笑顔で接する。このことを、身近にいる上司はきちんと見ていたのだ。

 トップVIP担当客室乗務員に決まったとき、やっかまれたのでは? と聞くと、「ないない!」と里岡さんは笑ってこう言った。

「私は、自分が! 自分が! と出しゃばるような目立つタイプではない。だから、ライバル心を燃やされるようなこともなかったと思います」

 クールな自己評価だが、実は、他者の里岡さんに対する評価はずいぶんと違う。

 里岡さんより1年早く入社し、以後24年間一緒に働いた戸田博美さんは、こう話してくれた。

「美津奈さんは、カリスマCA。私たちCAの憧れの存在で、たいへんな人気者だったのです。優雅な立ち居振る舞い、お客様をおもてなしする温かい心、どんな状況になっても慌てず適切に対応する臨機応変さ……。ANAの目指すCA像をここまで体現できる人を、私は見たことがありません」

 同じように感じ、里岡さんを慕うCAは多かった。ライバルなんておこがましい、むしろ、高嶺の花のような存在。

 多くのCAは、里岡さんがトップVIP担当客室乗務員に選ばれたのは「当然の結果」と受け止めていた。

 以後15年間、里岡さんは、トップVIP担当客室乗務員としてさまざまなVIPの接遇を担当する。

 先ほど登場してくれた戸田さんは、こう言う。

「美津奈さんの業務における正確性、安定性の高さは群を抜いていました。体調管理を徹底する、担当便前の飲食に気を遣う、事前の情報や知識の収集をぬかりなく行う、イメージトレーニングなどセルフマネジメントを極めるなど、プロ意識の高さは誰にもまねできないほどでした。また、自分の生活習慣やライフスタイルそのものが仕事の質を高めるという確固たる信念をお持ちで、茶道や華道をたしなみ、アロマや紅茶、食器などの知識も豊富でした」

 戸田さんは、里岡さんからVIP担当教育を受け、数年後に自身もトップVIP担当になった。

「初めてVIPを担当する日、極度に緊張していた私に、 “この場にいる者しか味わえない特別な空気感を楽しみましょう” と声をかけてくれたことは、今でも忘れません。おかげで、美津奈さんがいるから何があっても大丈夫! と、す~っと肩の力が抜けて落ち着きました」

皇后陛下のお心遣いに感動

「今の私は、過去と現在に出会った人によって創られている。(いいも悪いも含めて)出会ったすべての人が私にとってかけがえない人」という里岡さん 撮影/渡邉智裕

 里岡さんはトップVIPの接遇を重ねるうち、ある共通点があることを見いだした。

「みなさま、私たちが気を遣う以上に、私たちに気を遣ってくださるのです」

 両陛下は、いつも笑顔でファーストコンタクトをしてくださる。他人に対する気遣いも随所に見られた。皇后陛下については、印象深いエピソードがあるという。

「皇后陛下が私に、『(新潟県にある)飛島(とびしま)をご存じ?』とおっしゃったのです。私は、飛島(とびしま)か鳥島(とりしま)か聞き取れず、 “鳥島でございますか?” と申し上げると、 “ううん。ジャンプの飛島” とおっしゃられたのです。ジャンプという言葉を添えることで、確実に “飛島” だとわかります。私がまた聞き間違えないようにとご配慮に満ちたお優しいお言葉でした」

 里岡さんたちが困らないように、問題が起きないように、さりげなく心配りをしてくださる皇后陛下。気遣いの神髄を垣間見て、そのお人柄に感動したという。

 小泉純一郎元首相も心に残っているひとりだ。

「私が接遇を担当したときは、当時の秘書官の飯島勲さんもいらっしゃり、おふたりでお話ししていたので、邪魔にならないように新聞などを補充すると、すかさず小泉元首相は “君、すごいね!” “君、よく見てるねえ” などと褒めてくださるのです。ケガを抱えながら優勝した貴乃花への “よく頑張った! 感動した!” など、ワンフレーズのメッセージが記憶に残っている方も多いと思いますが、まさにワンフレーズを的確なタイミングでおっしゃる方でした」

 接遇したトップVIPの中には、故・サッチャー元英国首相もいた。当時、60代半ばごろだったが、テレビで拝見するよりもはるかに美しく、抜けるような肌の白さに驚いたという。

「機内でお食事のご説明をさせていただいていると、私の説明をすっとさえぎり “これと、これだけでいいです” と。必要なことだけを、シンプルにおっしゃるところが印象的でした。また、接遇前に、上司から “マダム・サッチャー(サッチャー夫人)とお呼びするように” と指示されました。首相を退任されたばかりだったので、本来の呼称はレディー・サッチャー(サッチャー女史)のはずですが、あえて “マダム・サッチャー” を使うところに、サッチャー元首相のご主人への思いが込められているのではないかと感じました」

乳がんが発覚し1年間の休職

 トップVIP担当のCAとして順風満帆なキャリアを重ねていた里岡さんだったが、2006年、人生最大の試練が訪れる。乳がんと診断されたのだ。41歳のときだった。

 前年に母が乳がんを患っていたこともあり、誕生日を迎える2月にマンモグラフィー検査に行ったところ、画像を見た先生がみるみる深刻な顔つきになった。

「細胞をとって再検査に回しましょう」と結果を待つこと1週間。この1週間が、里岡さんにとって最もつらい日々だった。

「あまりにも思いがけない出来事だったので、その衝撃が大きかったですね。両親が悲しむことを想像したら涙があふれたこともありました」

 結果は、乳がん。しかし、すでにこのとき里岡さんは気持ちを立て直しつつあった。オペの日どりを1か月後の4月に予約し、上司に事情を説明したうえで1週間だけ休みをもらった。

「お休みした1週間は、 “前向きな1週間” でした。今、どんなに悲しんでも、病気の事実が変わるわけではない。そもそも乳がんになったのは、誰のせいでもない。たまたま私の人生に起きたことです。だから私は、 “なんで、私が?” とは1度も考えませんでした。個室での入院が決まっていたので、好きなアロマやお気に入りのパジャマなどをそろえていました。手術後、起こりうることなどを調べる時間にもあてました」

 死に対する恐怖に過度に怯えるのではなく、元気になってまた働くために、「今」に焦点をあて、今すべきことに思いを巡らせる。この考え方は、いかにも「今を生きる」里岡さんらしい。

「終わった過去に浸るでも、起こってもいない未来を憂うでもなく“今、目の前にあるやるべきこと”に全力で向かい合うことが幸せに生きるコツ」と里岡さんは言う 撮影/渡邉智裕

 その後、1か月のフライト業務を行い、4月上旬、乳がんの手術を行った。

 手術は無事終わるが、結局、仕事に復帰できたのは1年以上たってから。里岡さんは、右の乳房を全摘出し、かつ、お腹の肉を移植して乳房を作る「同時再建手術」を行ったのだ。手術は、13時間にも及び、5か月してやっとまっすぐに立てるようになり、8か月してようやく2リットルのペットボトル程度の荷物が持てるようになった。それほど、回復までに時間がかかった。

「全摘出は、私が望みました。再発の可能性を残したくなかったからです。乳がんを摘出してくださった東京慈恵会医科大学付属病院(当時)の内田賢先生は、私の意を酌み同時再建手術をすすめてくださいましたが、当初、私は拒否しました。美観上の理由だけで乳房を作るのはエゴだと思ったからです。けれど先生はQOL(クオリティー・オブ・ライフ)の観点から、今後の人生において、乳房があるほうがメンタル面でもいい影響を与えることを説明してくださいました。乳房の同時再建手術を執刀してくださったのは、形成外科の武石明精先生。2人には、感謝してもしきれません」

 病院の先生しかり、同僚や友人しかり、「人の出会いに恵まれている人生です」と話す里岡さん。中でも、元UBS(スイス・ユニオン銀行)ジャパン会長のヴィットリオ・ヴォルピ氏は、里岡さんにとってメンターだという。

人生最大の恩師のひとりと慕うヴィットリオ氏と

「25年ほど前、プライベートでJALで香港に行ったとき、廊下をはさんで隣に座っていたのがご縁で知り合いました。以後、偶然に何度も出会うことがあり、そんなきっかけで親しくなったのです。私が乳がんになったとき、彼は、 “Life is Beautifl.だからこそ、精いっぱい生きなきゃいけないし、あきらめちゃいけないよ” と力強く言ってくれた。私にとって、大きな励みになりました」

 過去に出会った人、出来事のすべて(病気でさえも)が、自分にとってかけがえのない、学びや喜びの根源であったという。

50代で結婚。ますます光り輝く

 乳がん手術後、約1年間の療養生活を乗り越え、2007年に職場復帰した里岡さん。復帰した1年後には、身だしなみが整い、他のCAのお手本になる人が選ばれる「第1回アピアランスリーダー」の20人の中の1人に選ばれた。その他、ANAの代表として初めての出版の機会にも恵まれるなど、活躍の場はますます広がった。

惜しまれつつ2010年、退社。ラストフライトの機内にて

 しかし、2010年にはANAを退社する。

「病気になったおかげで、これまで走り続けてきた人生を見直すきっかけが生まれたのです。何か新しいチャレンジをしてみたいと思いました」

 以後7年で、ANAで培った経験をベースに接遇のプロとしてコンサルティング、コーチング、講演会などの分野で活躍。一般企業や医療機関などで、接遇研修やコミュニケーションスキルアップのアドバイスなども行っている。著書も11冊目を執筆中だ。

 ANAの元同僚で、現在はアシスタントとして里岡さんを支える小佐野貴子さんに、彼女の仕事ぶりを語ってもらった。

「仕事に対するプロ意識を強く感じます。講演会では、 “お客様は、里岡美津奈という商品にお金を出して買ってくださったのだから” と全力で臨まれます。毎回ご好評をいただき、次のご縁をいただくこともよくあります」

 もうひとり、2013年から里岡さんのパーソナルスタイリストとして、TPOに合わせたファッションを提案している、みなみ佳菜さんにも聞いてみた。

「 “ま、いっか” が一切ない真のプロフェッショナル。お仕事で着るお洋服を選ぶ表情は真剣で、講演を聴きに来てくださるお客様や、クライアントへの思いにあふれています。講演の対象者が経営者でも、若い女性でも、どちらもかなり盛り上がるのがすごいと思います」

 プライベートでは独身を貫いてきた里岡さんだったが、昨年11月23日、モータージャーナリストの宮城光氏と結婚。全日本選手権、全米選手権でチャンピオン歴のあるレーサーだ。

式は昨年の11月。結婚して1か月でそれまでの一生分以上、笑ったという里岡さん

 趣味で二輪の免許を取得した里岡さんは、ある日、友人のANAパイロットに誘われて宮城氏によるバイクのプライベートレッスンに出かけた。ここで2人は運命の出会いを果たす。宮城氏は、初めて会ったときの里岡さんの印象をこう話す。

「彼女がいるだけで、場の雰囲気がパッと華やかになりました。上品なのに、抜群に明るくて元気。ノロケみたいな言い方になりますが、 “天使のような人だ” と思いました」

 2人は友人期間を経たのち、2年の交際期間を経て結婚した。宮城氏は、その決め手をこう話す。

「行ってみたかったところ、やってみたいことなど、これまでの人生でやり残したことを彼女と一緒なら楽しめると思ったからです。CAの仕事を通して培われたのか、僕がしてほしいことを先読みして行動してくれる。そのさりげない気配りも心地いいです」

 生涯の伴侶を得て、ますます輝きを増した里岡さんは、今日も「今、この瞬間を精いっぱいに生きる」ことの大切さを説き続ける。その喜びを噛みしめて。

取材・文/三浦たまみ