華麗さと力強さ、その美しさと迫力で、見る者の目をくぎづけにする男子新体操。かつての日本一の選手から日本一の指導者になった、青森大学男子新体操部監督・中田吉光監督の新体操人生は、栄光と挫折の連続だった。

 世界中を熱狂と興奮の渦に巻き込んだ2016年リオデジャネイロ五輪。8月21日に行われた記念すべき閉会式で、マリオに扮した安倍晋三首相、和服姿でオリンピック旗を引き継いだ小池百合子東京都知事とともに注目を集めたのが、アクロバティックなパフォーマンスを見せたダンサーたちだった。総勢50人のうち20人を占めたのが青森大学男子新体操部の面々。テレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の「恋ダンス」を手がけたMIKIKO氏の振り付けにそって、彼らはバック転や宙返りを繰り返し、未来空間のような幻想的ムードを存分に演出した。

 その直後の8月26日。彼らは岐阜メモリアルセンター・愛ドームで全日本学生新体操選手権大会(インカレ)に挑んでいた。紫地に白い模様が斜めに入ったコスチュームに身を包んだ6人の精鋭たちは一糸乱れぬ動きで2分58秒の華麗な舞を披露する。2人の選手が1人を投げ、ひねりながら落ちてくるその選手を反対側にいる2人がキャッチする「ブランコ」という大技を筆頭に独創的プログラムをノーミスで完璧なまでに実演。全員がピタリと床の上に静止した瞬間、青森大学は2002年からのインカレ15連覇という偉業を達成した。11月の全日本でも12回目の優勝を果たし、彼らは「男子新体操界の絶対王者」というにふさわしい存在に君臨している。

 このチームを率いるのが指導歴29年の監督・中田吉光だ。自身も国士舘大学時代に全日本王者に輝き、栄光をひっさげて指導者に転身したが、頂点に上り詰めるまでの道のりは紆余曲折の連続だった。一時は指導への情熱を失いかけたこともあったという。

 それでも故郷・青森に戻って他の追随を許さない男子新体操王国を築くことに成功。さらなる高みを目指し続けている。そんな「北の名将」の生きざまに迫った。

2016年の全日本選手権にて。インカレの15連覇に続き、全日本も12回目の優勝

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 男子新体操というのは、女子新体操とは全く異なるものだ。女子は個人、団体ともにロープ(縄)、フープ(輪)といった手具を使って演技するが、男子で手具を使うのは個人のみ。6人で演技する団体は競技時間3分で、跳躍、倒立、バランスなどの徒手体操と、タンブリング(宙返りなどの技)や組体操などの転回系で構成される。タンブリングの上をタンブリングで飛び越える「交差」、6人が機械のように正確にバック転を繰り返す「3つバック」といった見せ場が次々と出てきて、緊迫感と迫力にあふれている。それが男子新体操団体の魅力といっていい。大会決勝の採点は構成点が10点、実施点が10点。それに予選持ち越し得点(合計点の半分)が加算され、30点満点で競われることになる。

 もともと日本発祥の競技だが、競技人口は全国で2000人程度と少ない。世界を見ても、ロシア、アメリカ、カナダなど少数の国でしか行われておらず、国際大会も開催されていない。

 このため、2008年を最後に国体の正式種目からもはずされてしまった。それでも冒頭のとおり、リオ五輪閉会式で青森大学がダンスに加わったことで再び脚光を浴びつつある。絶対王者である彼らが目下、男子新体操をリードしているのは紛れもない事実なのだ。

「体操で飯を食うんか」と母の猛反対

 1966年に青森県南東部の太平洋岸の町・階上町で生まれた中田吉光がこの競技と出会ったのは、道仏中学校に入ったころ。国士舘大時代に1976年モントリオール五輪のレスリング代表最終選考に残った経験のある担任の沼田一夫先生に「新体操をやれ」と言われたのがきっかけだったという。

「大学を出てすぐ赴任した道仏中に入学してきたのが吉光でした。私は相撲部顧問の傍ら、産休を取った女の先生に代わって新体操も見ることになったんです。ちょうどそのころ、吉光が文化祭でピラミッドの上から見事な飛び込み前転をしたのを見て、部に入るようにすすめました。自分も素人だったんで、大学の同期が赴任していた弘前工業高校に毎週のように連れて行って練習させてもらったところ、負けず嫌いで前向き、まじめな吉光はどんどんうまくなった。教えがいがありましたね」と恩師はしみじみと当時を述懐する。

道仏中学時代、中田の才能を見抜き新体操に導いてくれた沼田先生と

 前転、後転、宙返りといった技ができるようになる楽しさに加え、6人で一緒に演技する団体の魅力に取りつかれた中田はより競技に力を入れるため、実家から遠く離れた弘前行きを決意。当時は弘前工業が全国トップに君臨していたため、そちらへ行くのが順当だったが、彼は自分に声をかけてくれた先生への義理を重んじて弘前実業高校のほうを選択。あえて茨の道を歩むことになった。

「2年になった途端、部員が1人になってしまったんです。先生が素人含めて1年生10人を集めてくれましたけど、2人しか残らなくてチームは組めなかった。仲間がいないと練習用のマットも出せないんで、器械体操部の先輩に手伝ってもらうしかない。そんな空しい日々を通して仲間と一緒に戦うことの大切さを痛感しましたね」と中田は言う。

 当時は個人戦も出ていて、東北チャンピオンにも輝いたが、彼は「団体こそ自分が追い求めるべきもの」だと実感。その信念を貫くため、日本最高峰の国士舘大学行きを志した。

 ところが、階上の実家に住む母・静江さんは「お前は体操で飯を食うんか」と猛反対。父・新太郎さんと対峙することになった。

「親父は遠洋漁業の漁船員で、年の大半は家を空けていた。そのときはたまたま帰っていて母や兄弟を2階に行かせて2人きりになった。もともと無口な人だったけど、特に何も聞かずに “お前の好きにしろ” と言ったんです。親父は7人兄弟で高校にも行けなかったんで、息子を上の学校に行かせたい気持ちが強かったんでしょう。父のひと言で母親も納得してくれました。自分も東京に行くなら日本一になってやろうと固く誓いました」

 国士舘では入学早々の東日本インカレでいきなり優勝。前途洋々かと思われたが、その後の失敗で一気にBチームに落とされる。2年のときには失意のあまり田舎に帰ろうとまで考えたが、両親のことが脳裏をかすめ、心を入れ替える。3年からは早朝、午前、午後、夜の1日4部練習に取り組むようになり、3、4年時に全日本連覇を達成。「日本一になる」という野望をとうとう現実にした。

全日本王者となった国士舘大学時代の中田。1年で東日本インカレ、3、4年で全日本を連覇した

教え子の言葉に背中を押され、強豪校へ

 卒業後はドイツ留学の話も浮上したが、母の「日本におってくれ」という言葉もあり、東京にある体操クラブ就職を決意。社会体育指導を手がけるつもりでいたが、朝倉正昭部長(’96年アトランタ、2000年シドニー新体操監督)から突然「お前の就職先を断ったから」と予想外の言葉を突きつけられた。

「 “なぜあなたが勝手に断るんですか” と食ってかかったところ、 “お前は学校の先生にならなきゃダメなんだ” と言われたんです。 “今から大阪に行け” と言うので、その足で教育主事のところを訪ねて面接を行い、生野工業高校の非常勤講師の話が決まりました」と彼は急転した進路に戸惑いながらも、大阪へ赴くことを受け入れた。

 日本がバブル絶頂に向かっていた’88年春、監督・中田吉光が大きな一歩を踏み出した。住之江の教員寮に入り、電車3本を乗り継いで生野まで通う新天地での日々には戸惑いもあったが、意欲だけはとにかく満々だった。

「部員は3学年で12人弱。池谷幸雄や西川大輔を輩出したことでも有名な王者・清風高校とははるかに差がありました。自分も現役引退直後で動けたのでいろんな技も教えた。高校時代に感じた人と一緒に作り上げていく大切さを再認識して楽しかったですね」と彼は笑顔を見せる。

 結果的には近畿大会4位。不完全燃焼感も強かったが、3年生を送る会のとき中田は自分の名前を入れた金色のメダルを作り、ひとりひとりにかけてねぎらった。その最中に下級生が突如として立ち上がり、こう言い放った。「先生はここにいる人ではありません。ここでは絶対勝てません」と。

「実は7~8回、香川県の坂出工業高校から “こっちで指導しないか” という誘いを受けていた。’93年に香川と徳島で『東四国国体』があり、新体操強化を考えていたんです。生徒たちもそれをどこかで聞きつけて知っていたから、私の背中を押すために1人がそう言い出した。送る会は結局、騒然としたまま終わり、私は坂出に行く決意を固めました。そして出発の日。生野からわざわざ住之江まで生徒たちがそろってやってきて、卒業生5人の名前を入れたメダルを私の首にかけてくれました。さすがに感極まり涙が出ましたけど、彼らに申し訳ない気持ちも強くて、まともに顔を見れないまま立ち去ったんです」

 30年近い昔のことを語りながら中田は再び涙をこぼした。指導者1年目の出来事は今も心の奥底に深く刻まれている。このとき生野に残してきた生徒のためにも最高のチーム、最高の演技を作らなければならないと思い続けて、彼はここまで戦ってきたのだろう。

新天地での栄冠、そしてどん底へ

 とはいえ、青森育ちの中田にとって四国は大阪以上に未知なる地。地縁血縁もなければ友人も皆無に近い。単身、坂出に降り立ったとき「空気が生暖かい」と驚きを覚えたという。小さなアパートに住み、駅前の一杯飲み屋の常連になりながら、少しずつ土地に慣れ、学校にも慣れるように努めていった。

 坂出工業は全国大会常連ではあったが、23チーム中7~8番手。頂点を目指すとなれば意識を根底から変える必要がある。自身が国士舘時代にやった猛練習は当然のこと、生徒たちとも真っ向から向き合い、本音でぶつかって「お前らを絶対に勝たせる」と断言。強固な信頼を築いていった。帰宅時間が遅くなることに不満を吐露していた親も「ウチの子が勝ちたいからやっていると言うんで」と理解を示し始め、指導者・生徒・保護者の三位一体の良好な関係も生まれた。

監督として、高校総体、選抜大会、国体の3冠を手にした坂出工業時代

 地道な積み重ねが実り、中田が目指していた高校総体優勝を1年目に達成。5年目の’93年には高校総体、選抜大会、国体の3冠を果たす。20代の指導者がタイトルを総なめにしたのは史上初。中田吉光の名は新体操界で知れ渡った。

 しかし、東四国国体の年を境にチームは急降下し始める。当時の生徒で、坂出工業の林晋平現監督はこんな見方をしていた。

「僕が入学した年に国体があり、2年のときは優勝メンバーが3人残っていたのでまだよかった。だけど3年のときは高校から始めた初心者が増え、先生の情熱が伝わらず、物足りなさを感じたと思います。’93年に3冠を取ったときは文句のつけようがない勝ち方をしていたぶん落差が大きかったんでしょう」

 中田を奈落の底に突き落とすようなショッキングな出来事が起きたのは’96年夏。高校総体を目前に控えた学校での合宿中に選手8人全員が逃亡してしまったのだ。

「朝練の時間になっても寝ているんで、 “これでいいのか?” と思いつつ、新聞を取りに行って戻ったら全員が消えていた。保護者とも連絡をとり、必死になって探しました。坂出は周辺の島々に行くフェリーがあるのですが、乗り場のひとつで自転車が見つかり、島から島へ転々としていることがわかった。彼らを発見したのは翌日です。合宿はもちろん取りやめになり、高校総体も “好きなようにやれ” と送り出したところ、優勝からはほど遠い8位に終わった。それまで張り詰めていた糸が切れたような気がしましたね」

 これを境に全国で勝てなくなり、中田は約5年間、悩み、苦しみ、もがき続けた。悪いことは重なるもので、プライベートの問題にも直面。孤独に耐え切れず、酒に逃げる日々を送ることになった。「そのころの先生は酔っぱらうたび “寂しい” “子どもたちがついてこない” とこぼしていた。見ているこっちがつらかった」と林は打ち明ける。

再び頂点を目指して故郷・青森へ

 出口の見えないトンネルに迷い込んだ中田に救いの手を差しのべたのが、同じ青森出身で国士舘の7つ後輩に当たる、現・青森山田高校監督の荒川栄だった。

「先生、一緒に青森に帰りませんか?」

 荒川監督が電話口でこう声をかけたとき、中田は思わず涙を流したという。

中田を青森大学に誘った、系列校・青森山田高校新体操部の荒川監督 撮影/八木橋虎史

「僕は国士舘のころから中田先生に面倒を見てもらっていて、何度も坂出に出向いてチーム作りを学ばせてもらいました。その後、盛岡市立高校で指導をしていたんですが、地元の青森山田から “戻ってこないか” という話が舞い込んだ。青森に戻るなら、系列校の青森大学でも男子新体操を強化して高校生の受け皿を確立し、王国を築き上げたいと考えて学校側に打診したんです。

 そのうえで中田先生に “青森で真の日本一のチームを作りましょうよ” と声をかけました。先生も坂出での後半は苦労されていたので故郷に帰れば必ず能力を生かせると信じていました」

 こうして青森大学へ赴くことを決意した中田。苦しい時期を陰から支え、彼が2002年に新天地に赴いた2年後に結婚した小学校教師の妻・雅子さんも、その決断を喜んだ。

「坂出最後のころはお酒で紛らわそうとする姿が目について本当に心配でした。 “お酒はほどほどにして” と声をかけると “自分はお酒に助けられてきたからやめられない” と言う。青森行きの話も相当、揺れていたと思います。最終的に行くと聞かされたとき、私は心からよかったと思った。自分も主人についていこうと決めて小学校教師をやめ、青森の教員採用試験を受け直しました。そのとき39歳。青森の採用試験は40歳までなので私には1回しかチャンスがなかった。懸命にチャレンジして合格することができました」

 中田本人も「あいつがいなかったら俺はダメになっていたかもしれない」と本音を吐露する。それほど存在が大きかった。彼女が猛勉強した採用試験の問題集を捨てようとしたときも「取っておけ」と言い、今も大事に保存しているという。そういうところが不器用な男の愛情表現なのだろう。妻は学生たちを家に呼んで食事を振る舞うなど、今も夫のサポートを欠かさない。2006年に誕生した長男・光乃介君も頼もしい父の背中を見ながら新体操にまい進している。生活面や精神面で安定したことが、青森でのいい仕事につながっているはずだ。

中田を献身的に支え続ける妻・雅子さんと父の背中を追う長男・光乃介君 撮影/八木橋虎史

 とはいえ、2002年春に青森に戻った直後、彼に用意されていたのは学生寮の販売員。最初の1年はこの仕事をする羽目になった。大学を卒業してから足かけ15年間、教職に就いてきた36歳の男性にとってこの扱いは屈辱的だった。誘った荒川は「約束が違う」と激怒し「すぐにやめましょう」と言い出したが、中田は「とりあえず3年は腰を据えてやる」と宣言。午後から新体操の練習に専念できることをポジティブにとらえて動き出した。

「青森大学の男子新体操は3人の同好会からスタート。僕が来るということで2002年に8人が入って11人になり、部に昇格しました。すぐに全国高校トップ選手は取れないので2番手3番手を集めたけど、同年8月のインカレでいきなり優勝しました。5月の東日本インカレでは国士舘と0・45の差。野球でいえば10対0くらいの差でしたけど、3か月あれば勝負できると考え、坂出の最初と同じように意識改革から始めたんです」

 中田が口癖のように言ったのは「今、できんやつは3年後もできん。目の前のことを必死にやれ」ということ。「気持ちで負けたら話にならない」という信念を選手たちにストレートに伝え続けたのだ。

 加えて、猛練習を課した。あるときは朝9時から翌朝4時までの19時間を費やし構成を考えさせた。プログラムに工夫を凝らし構成に4か月もの時間をかけるというのが、中田のモットー。12×12mの床を大きく使い、指先1本1本までこだわり抜いた独創的な演技をするというのは生野、坂出時代から積み上げてきたこと。「ブランコ」の原型も坂出ですでに作り始めていたが、ほかに作れない斬新な大技を編み出し、それを構成に盛り込んでいった。そのトライを選手自らやらなければ意味がない。坂出時代に反発を食らった反省から、中田は学生たちの自主性を重んじることを忘れなかった。

「青大の男子新体操は高さ、大きさ、美しさ、スピード、運動量の5つを追求しています。1人の選手を追いかけてみると他との違いがよくわかると思います。床の1辺を4歩で移動するというのも僕らしかできないこと。中田先生はそういう細かいことにこだわり、絶対に妥協を許しません。構成を考えていても “それは見たことがある” と言われることがすごく多い。同じ運動でも手の角度や跳躍の仕方を変えるなど工夫を凝らし続けなければ認めてもらえません」と現チームの大岩達也・団体主将(新4年)が神妙な面持ちで語っていたが、緻密なディテールの積み重ねがあるからこそ、青森大学は急激に強くなり、結果的に15連覇までたどり着いたのだ。

新体操の枠を超えたエンタメへ

 この15年間で中田にとってターニングポイントとなった出来事が3つあった。1つ目は2003年の全日本での優勝。2002年のインカレを制しながら全日本をとれなかったことで、中田は「絶対に勝てる不動のチームを作ろう」と決意。個人能力の高い国士舘、福岡大に勝る構成を考え、実践した。

「このときの3年に大坪政幸という男がいました。荒川が盛岡市立で指導してウチに来た選手で、発想したことを床の上で実践できる実力と人間力を兼ね備えていた。ひとつひとつの動きの意味を理解できる彼がいたことで、僕らも過去にないものを作れたし、新体操の枠を超えた芸術を作れたと感じました。一例を挙げると、それまでの新体操の手の使い方は、握るか、伸ばすか、開くかの3種類しかなかった。われわれは指をいろんな形で使うことで表現を多様化することも取り入れた。賛否両論はありましたが、既成概念を壊せたという実感を得ましたね」と中田はしみじみ言う。

 2つ目は2005年の全日本優勝。個人能力の高い集団だったこともあり、より高さとダイナミックさを追求でき、アクロバティックな要素を追加。2次元から3次元へ飛躍した手ごたえを得たのだ。「こんなことができるんだという領域までたどり着いたと思います」と指揮官は胸を張る。

 そして3つ目が2009年の全日本制覇。実はこの年に大坪が脳腫瘍で逝去するという悲しい出来事に見舞われ、青森大学は「政幸のためにも絶対に勝たないといけない」と意気込みを新たにした。その大舞台で芸術性と気迫を兼ね備えた完璧な演技を披露。これがユーチューブで300万回再生されるに至り、一気に知名度がアップした。

選手の演技、構成、手の角度に至るまで一切の妥協は許さない 撮影/八木橋虎史

 そこでアプローチしてきたのがシルク・ドゥ・ソレイユ。世界ツアーに青森大学から3人、国士舘から2人を送り出すことになり、エンターテイメントに踏み出す契機となった。その後、2013年2月に青森大学新体操のオリジナル舞台である「BLUE」もスタートさせる。

 これを見た世界的デザイナー・三宅一生氏からオファーを受け、同年6月には彼のプロデュース舞台「青森大学男子新体操部」を公演するに至った。さらには、OBによるプロチーム「BLUE TOKYO」も発足するなど、彼らの活動範囲は、今や新体操競技の領域をはるかに超えている。

「 “新体操の舞台を作りたい” というのが、政幸の最後の言葉でした。そこに自分がパフォーマーとして出るという夢を持っていた。その彼が亡くなった年の全日本の演技をきっかけにエンターテイメントに進出することができたのは、偶然ではないと思います。

 三宅さんもBLUEの映像を見て、1週間もたたないうちにショーを開いてくれた。インカレ直前の慌ただしい時期ではあったんですが、本番まで1か月あれば準備可能だと踏んで参加しました。リオ五輪にしても、われわれの芸術性と技術の高さを理解してもらう絶好の場になった。政幸が導いてくれたものに感謝しつつ、この先も発展させていきたいですね」

 と、中田は亡き教え子に思いを馳せた。

 男子新体操の芸術性と競技力の両方を極めていくのが、今後の指揮官の目標。前者で言えば、BLUEの規模拡大、OBの活躍の場を増やす、2020年東京五輪への参加などがターゲットになってくる。後者では国体の復活、世界大会実施、指導者の養成、競技人口の拡大などが挙げられる。日本でそういった新たなチャレンジの牽引役になれるのは中田だけ。それは誰もが認めるところだ。

「中田先生は職人気質を持った日本屈指の指導者。多くをしゃべって伝えるのではなく、心で語りかけられる人。独特の空気感を持つカリスマ的リーダーだと思います。だからこそ、荒川先生のようなよき参謀が集まってくる。そういう人材をうまく使いながら、男子新体操を発展させていってくれると思います」

 今年1月の高校サッカー選手権で全国制覇を果たした系列校・青森山田の黒田剛監督もエールを送っていた。他競技からも一目置かれる名将がどんな変化を遂げていくのか。男子新体操がどう進化していくのか。その動向を興味深く見守っていきたい。

取材・文/元川悦子