激しい拷問のうえに獄中死。戦時下最大の言論弾圧事件 

 東京・日比谷公園にあるオープンカフェに、リュックを背負い、両手にも手提げ袋を持った小柄な女性が現れた。女性の名は、木村まきさん(68)。

「この店は、一昨年の12月10日に、横浜事件国家賠償訴訟・第17回口頭弁論の閉廷後、弁護団のみなさんとビールをいただいた場所なんですよ」

 そう言ってまきさんは、リュックや手提げから何冊もの分厚い本や資料を取り出した。本には“横浜事件”の文字が躍っている。

 戦時下最大の言論弾圧といわれる横浜事件。まきさんは元被告人・故木村亨さんの妻としていまなお横浜事件の歳晩を闘っている。

「私は戦後生まれですから、当時の空気を吸ったことはありません。でも、木村と出会って間もなく裁判のことで活動してきて、70年以上前に終わった事件ではないと身に沁みました」

1925年に行われた治安維持法の反対デモ。天下の悪法は同年5月に制定された

 横浜事件とは、1942年から’45年ごろにかけて、改造社や中央公論社などの言論・出版関係者ら60人以上が神奈川県の特高警察に治安維持法違反容疑で摘発・拘束された事件である。激しい拷問の末に虚偽の自白をし、約30名が起訴され有罪判決を受けた。拷問は凄惨を極め、獄中死者、出獄直後の死者は合わせて5名を数える。

 横浜の代用監獄でその日のうちに拷問が始まった。「(拷問で死亡した作家の)小林多喜二の二の舞いを覚悟しろ!」

 と特高たちは口々に叫びながら、半裸の亨さんに竹刀や木刀などで暴行を続けた。’45年5月の横浜大空襲のときには、囚人をいつ殺してもよいという任命を受けていた看守は「トンカツにしてやる。逃げるやつにはライフル銃だ」と独房の鍵を開けなかった。

治安維持法による逮捕者は国内だけで約7万人 

横浜事件の元被告人である夫・木村亨さんの遺志を継ぎ、裁判で闘っている木村まきさん

 2年以上、拘留された者もいる。木村亨さんらほとんどの被告人は、敗戦の年に主に懲役2年、執行猶予3年の判決で釈放された。

 元被告人たちは、拷問した元特高警察官を告訴したが、有罪となったのは3名だけ。しかも裁判から30年もあとになって、その3名が特赦によって投獄されていなかったことを元被告人たちは知った。

 1986年7月、亨さんをはじめとする元被告人たちが横浜事件の再審請求を開始する。この第一次請求は最高裁で棄却され、ここから長い闘いが始まる。

 問題は、戦後のどさくさにまぎれて、司法が訴訟記録などの重要書類を焼却してしまっていたことだ。それが再審請求の大きな壁になっていた。

 治安維持法のあった時代とは、どんなものだったのだろうか。

 横浜事件国家賠償の証人尋問にも立った、近代日本の治安体制を研究する小樽商科大学の荻野富士夫特任教授が解説してくれた。

「治安維持法は、1925年に、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まるためにできた法律です。1930年代の運用を通じて拡張解釈を進め、本来の共産主義革命運動の激化防止のみならず、やがて宗教団体や自由主義、戦争反対などすべて弾圧・粛清の対象になっていったのです。組織や集団を狙い、メディアに関わる記者や編集者、官僚のグループなども標的にされました

 学生の読書会、社会科学の文献を読む会、プロレタリア文学愛好会、俳句や川柳の会までもがその対象となった。治安維持法による逮捕者は国内のみでも約7万人にのぼり、さらに植民地でも猛威をふるった。

「中心的なリーダーたちは起訴されて有罪になりました。でも、そんなに重い刑ではないのもミソなんです。ほとんどの場合、懲役2年、執行猶予3年。それでも十分、運動をつぶす効果はあるし、喧伝にもなる。だから目立っていたグループは狙い撃ちされやすいんです。私は“えぐり出す”と言うんですが、芽吹いて大きな葉っぱになる前の根っこの部分を摘み取ってしまう。それは、国家にとって不健全、戦争はいけないという事実に気がつかせることはけしからん、ということなんですね」

遺志を継いだ闘い「生きている事件」

 出版社の編集者だったまきさんが木村亨さんと出会ったのは、’89年冬のこと。

「知り合いの市民グループの集まりに参加したんです。ビデオ『横浜事件を生きて』(木村さんらの活動を描いたドキュメンタリー)の試写会も兼ねていて、上映が終わると、木村が立ち上がって挨拶をしました。顔が父親に似ているな、ひょろひょろとしていて、風が吹いたら飛んでしまいそうな感じだなぁというのが第一印象。後日、退院直後だったことを知ったのですが」

 名刺交換した2人は、電話で連絡をとるようになり、まきさんは、横浜事件の再審請求活動を行いながらも偉ぶることなく自然体の亨さんに惹かれていく。また、彼の妻が6年前に病死したことも知った。

「木村は60歳のころから喘息を患い、ときどき発作を起こしていました。私は、母親の作った手料理を木村のアパートに届けたりするようになりました」

 そして’92年、2人は入籍。まきさん43歳、亨さんは76歳だった。

「再審への道を開いてくれた森川金寿弁護士が結婚の後押しをしてくれたんです。木村は、私に苦労をかけるからと結婚に踏み切るまで時間がかかったんですが、後を継いでくれる人ができたと喜んでくれました

 再審請求は第2次も棄却。そして’98年、第3次再審請求の1か月前、亨さんは喘息発作による呼吸不全で急逝。享年82歳だった。まきさんは亨さんの遺志を継ぎ、再審請求人のひとりとなる。2003年、横浜地裁で再審開始が決定、’05年には東京高裁で再審開始確定となった。

「ポツダム宣言を受諾した瞬間に治安維持法は失効した、拷問はあったと認められた。司法にも良心はあったんだ、60年もかかったがやっと報われたと思っていたら、’06年、地裁で再審公判が開かれたが免訴判決。’08年、最高裁で免訴が確定しました。免訴とは、誰の罪も問わずうやむやにすること。理不尽極まりないことでした」

 ’10年の刑事補償決定で請求は認められたが、まきさんは納得できなかった。

「どのメディアも“実質無罪”の見出しで、それが私にはショックでした。ただし書きつきの“無罪”をお情けでもらいたいんじゃない。名誉が回復されたとはとうてい思えませんでした。司法は、訴訟記録を自ら燃やしておきながら“記録がない”と再審を突っぱね続け、元被告人たちは“有罪”のままこの世を去ったのです。国の責任をうやむやにすることは、次の言論弾圧につながるのではないか。そう思えてなりませんでした

 まきさんは’12年12月、もうひとりの遺族とともに計1億3800万円の国家賠償を求めて東京地裁に提訴した。昨年棄却されたが控訴。5月には第3回口頭弁論が控えている。

日中戦争前夜と同じ軍靴の響き

 荻野教授は、共謀罪には、第一次安倍内閣から練られた計画性を感じるという。

「第一次安倍内閣は、まず教育基本法を改正しました。そこから始まっています」

 教育基本法は、日本国憲法を国民に根づかせるための重要な法律。しかし、それを愛国心や郷土愛を養うように改正したのだ。

「これは異分子をあぶり出して排除していくためのものと言えます。巧妙にメディアを操作し、また保守勢力をけしかけて、自分たちにとって不純なもの、健全でないものをつぶしていく。『美しい国』とは、見たくないものは消していく、という意味にも聞こえます

 最近の流れは日中戦争に突入する時期と似ていると、荻野教授は危惧する。

「1937年、日中戦争前夜、軍機保護法という軍事機密を保護する明治時代の法律が復活、対象範囲が拡大され、刑罰が強化されました。これは流言飛語(デマ)を流したり、軍機を話したりすると検挙される法律です。そして治安維持法の2度目の“改正”、続いて国防保安法が公布・施行され、政治的な機密が保護された。全国一斉に防諜週間が始まり、“国民防諜”が叫ばれました。日本が本格的に戦争に突入しようとする時代に、戦争を遂行するのに障害となる報道や思想の持ち主の口を封じたのです。これらの法律は、戦後GHQの人権指令によって、廃止されました。

 しかし、なんだか私にはあの時代の軍靴が再び聞こえるような気がするんです。特定秘密保護法は、かつての軍機保護法と国防保安法を合体させたような法律といっても過言ではない」

治安維持法と「共謀罪」の比較

 まきさんも、2006年の第一次安倍内閣発足時、その「第一声」に違和感を覚えたひとりだ。当時のメールマガジンに、次のように書き記している。

《美しい国日本をつくっていくために全身全霊で打ち込んでまいりたい……。そのために、教育基本法も「改正」し、入管法も「改正」、共謀罪もないといけない、何より「憲法改正が必要だ」と言っているように聞こえてきます。共謀罪があるような国が、はたして『美しい国』なんでしょうか?

 まきさんは今、あらためて問いかける。

「犯罪を計画しただけで逮捕されるような共謀罪が成立したら、どんな恐ろしいことが起こるのか? 言論や思想の弾圧が始まるのです。横浜事件は大昔に起こった過去の事件ではなく、今日的な“生きている事件”。若い人たちにも、それを理解してほしいのです」

<取材・文/小泉カツミ>
ノンフィクションライター。医療、芸能など幅広い分野を手がけ、著名人へのインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』(竹内書店新社)ほか