'16年12月の全日本選手権で演技に臨む浅田。順位はふるわずも滑りは優雅で魅力的だった

 4月10日、10年以上にわたりフィギュアスケート界の先頭を走り続けた浅田真央が、現役引退をブログで発表した。

「荒川静香さんは、“いちばん影響力のあったスケーターだと思っています”とコメント。織田信成さんは、関大の監督就任会見で真央ちゃんのことを問われると“ハンカチください~”と大号泣でした」(スポーツ紙記者)

 かつてのライバルたちも、傑出したアスリートの引退を惜しんでいる。

「5歳でスケートを始め、すぐに天才少女と呼ばれるように。女子選手はほとんど跳ぶことができなかったトリプルアクセルに果敢にチャレンジする姿勢は、彼女が努力の人でもあったことを示しています」(同・スポーツ紙記者)

 バンクーバー五輪では2位だったが、ショートとフリーで合わせて3回のトリプルアクセルを成功させるという偉業を成し遂げた。

 4年後のソチを目指し、ジャンプの改良を図ったが、身体に染み込んだクセは簡単には変わらない。スランプに陥った彼女に、母・匡子さんとの早すぎる別れが重なった。

'11年末に肝硬変で逝去されました。海外にいた浅田さんは緊急帰国。お母さんと最後に会うことは叶いませんでした」(テレビ局関係者)

 悲しみを乗り越え、直後の全日本選手権では2季ぶりに優勝を果たす。好調に見えたが、身体は悲鳴をあげていた。

「腰と左ひざに痛みを抱えていたんです。練習を重ねると状態がひどくなるのに彼女は練習をやめませんでした。トリプルアクセルを封印せざるをえなかった時期もありました」(同・テレビ局関係者)

 それでもソチ五輪では金メダルを期待された。しかし、ショートプログラムではミスが相次ぎ、16位に沈む。

「前日の悪夢が嘘のように、フリーでは完璧な演技で自己ベストを更新。あきらめない心に、日本中が感動しました」(同・テレビ局関係者)

 ソチ五輪後は1年休養。'15年に選手に復帰したが、グランプリファイナルでは最下位。'16年は全日本選手権12位で世界選手権に駒を進められなかった。若手の台頭にもよるが、これにも浅田の功績が大きく貢献している。

15年ほど前は、全日本選手権でも空席が目立っていました。'05年に真央ちゃんがグランプリファイナルを制したころから、フィギュアブームに。本田真凜選手などは、彼女に憧れてスケートを始めた子です。山田満知子コーチ門下の村上佳菜子選手や宇野昌磨選手も、真央ちゃんの背中を見て育ってきました」(スケート連盟関係者)

浅田を知る恩師らが当時を振り返る

 浅田が引っ張る形で、日本のフィギュアはレベルが向上。彼女の母校でもある中京大学附属中京高等学校のスケート部部長・渡辺伸雄先生は、当時を振り返ってこう話す。

彼女は、練習をこれでもかというくらい行います。天才だと語られることが多いですが、誰よりもたくさん練習をしていて、コーチに止められることがあるほど。試合でも“練習不足だった”と彼女が語ることは少ないです

小学校中学年から中学卒業まで通った大須のリンク

 幼少期に通った名古屋スポーツセンターの堤孝弘さんも、

「目標をクリアするために努力を重ねることが楽しいと会見で話していましたが、楽しいと思えるのは目標が達成できるから。簡単に聞こえますが、誰にでもできることじゃないんです。いくら練習を重ねても、才能がなければ芽も出ませんからね。

 才能があるうえに、休みがあるわれわれ職員よりも、リンクに通い、スキルを研鑽し続けた彼女は、努力を重ね続けられる本当の“天才”だったんです

 '10年から7年間指導に当たった佐藤信夫コーチにも彼女との思い出を聞いてみると、

「氷の上でガンガン練習をしたこと。これがいちばんの思い出です」

 出てきたのは彼女の“練習”への姿勢だった。さらに続けて記者とのやりとりである。

─ソチのフリー演技の前に、どんなアドバイスを?

たったひと言、“今まで自分が練習してきたことを信じてやってごらん。必ずできるから”とだけアドバイスをしました

 最後に、彼女にどんな人生を歩んでほしいかを聞いた。

難しいなぁ(笑)。彼女が今後どんな仕事をするかもわかりませんが、幸せな人生を送ってほしいなぁと。それが彼女にとっていちばんいいと思いますし、それ以外に何も思いつかないです

 ファンの思いもまったく同じ。これまで多くの人々に感動を与え続けてくれたのだから、今度は自分の幸せだけを追ってほしい。