タバコの煙には70種類以上の有害物質が

 午後7時。タバコの煙が立ち上る飲食店を横目に「食事をするなら禁煙の店。煙の中で食べてもおいしくない」と眉をひそめるのは横浜市に住む50代の主婦。「人が吐き出す煙で病気になったらたまらない」と語気を強めた。この煙を「副流煙」といい、世界各国で「受動喫煙」を防ぐ取り組みが進む。

「日本には屋内全面禁煙義務の法律はなく世界最低レベル。国際水準では屋内の職場や公共の場所の全面禁煙が要求されています」(厚生労働省)

 2020年、東京でオリンピックが開催される。問題は世界保健機関(WHO)と国際オリンピック委員会(IOC)が「たばこのないオリンピック」を推進していることだ。'08年の北京オリンピック以降の開催国では受動喫煙に対し、罰則を伴う法規制を実施してきた。東京も例外ではない。

 厚労省は「東京五輪を契機に」と「健康増進法改正案」をまとめ、受動喫煙防止に関する方針を盛り込んだ。

 これに反発したのが自民党。飲食店が「禁煙」「分煙」「喫煙」を選択し、それらをステッカーにして店の前に貼るなど、表記の徹底にとどめる方針を固めたようだ。

 全国生活衛生同業組合中央会事務局長の伊東明彦氏も「全面禁煙は大型店はまだしも、小規模の居酒屋やバーなどの飲食店は喫煙ができず、客足が遠のき廃業に追い込まれることが懸念されます。厚労省案では喫煙室を設置すればいいなどと言っていますが、零細店舗でハードの整備は現実的ではありません」と反発を強める。

「タバコを吸う人も吸わない人も飲食店を自由に選ぶ権利があるし、仕切りや強力な空気清浄機などの技術力も向上している。われわれは“分煙先進国”を目指すことが望ましいのでは」(伊東氏)

 日本たばこ産業(JT)は「私たちは受動喫煙というのは喫煙しない人の迷惑になるという点で考える。受動喫煙が身体の害になるという医学的な見解は十分ではない」(広報)とまでも言い切る。

 日本禁煙学会の作田学理事長は怒りで声を震わせた。

「タバコの煙には70種類以上の有害物質が含まれています。タバコの煙とがん発症の因果関係は国立がん研究センターで研究され、明確に立証されています。迷惑などというあやふやな問題ではない」

 喫煙者でなくとも長年、受動喫煙を続けることでがんや脳卒中、気管支喘息などの健康リスクが高まるという。

 禁煙外来の医師で、沖縄大学の山代寛教授は「乳幼児突然死症候群の発生確率も高まります。喫煙する親からの受動喫煙での発症リスクが高いとWHOや厚労省の調査で判明しています」と説明する。

「虫歯や中耳炎の原因にもなる。妊娠中の受動喫煙は流産や奇形、発育不良などに影響があります」と山代教授。

 さらに……。

分煙にしても意味がない理由は

東京・JR新橋駅前の喫煙スペース。仕切りの外で喫煙する人もいる(一部モザイク加工)

「タバコの煙には鉛の成分が含まれており、多動性障害(ADHD)や学習障害の原因になる場合もある。思考や記憶力に影響するので勉強についていけなくなることも」(作田理事長)

 もうひとつ、危険なものがある。加熱式タバコだ。従来の紙のタバコとは違い、においも煙も出ないがニコチンなど有害な成分を含んでいる。

「ニコチンが原因で引き起こされるといわれる心筋梗塞や狭心症、呼吸困難やのどの炎症などが知らず知らずのうちに発症する危険があります。立派な受動喫煙ですが、煙もにおいもないので気づかないのです」(作田理事長)

 受動喫煙は分煙では防ぎようがない。「仕切りや空気清浄機で防ぐことはできません。ドアで区切ったとしても開けたときに煙は禁煙席に流れ込む。昼、夜で時間分煙をするところがあるが壁や天井にはニコチンやタールなど煙から出た有害物質がついているし、密閉空間は有害物質の密度も毒性も濃い」と作田理事長。

 山代教授も「洋服についた副流煙の有害物質は消臭剤では取れない。子どもの前でタバコを吸っていなくても仕事でついたタバコの煙が服や髪についていて、それで子どもを抱き上げたら有害物質は子どもに移ります。これも受動喫煙です」と話す。

 受動喫煙の危険に長時間さらされるのが飲食店などで働く従業員たちだ。九州看護福祉大学の川俣幹雄教授らが1万人以上にアンケートした結果、飲食店従業者の65・4%が厚労省の案に賛成だった。「女性や若者など、職場内で立場の弱い人は、タバコの煙が嫌でもなかなか声に出すことができないうちに身体を壊してしまう」と山代教授。パワハラならぬ“スモハラ”が生じている。

 作田理事長は厚労省案を評価しながら、「足りないのは建物内の全面禁煙に踏み切ること」と苦言を呈する。

 過去に「分煙」と「全面禁煙」との狭間に立たされたのが神奈川県だ。'10年に「受動喫煙防止条例」を導入。調理場を除く床面積100平方メートル超の飲食店は「禁煙または分煙」を義務づけた。しかし、100平方メートル以下の店舗に関しては努力義務にとどめた。同県たばこ対策グループの担当者は「違反すると喫煙者は2万円以下、店側は5万円以下の過料が科される」と説明する

 横浜市は人通りの多い市内6か所を喫煙禁止地区に指定。市の担当者は「喫煙禁止地区を示す看板を設置し、路面にも標示するなど、わかりやすく工夫しています」と話す。

 さっそく横浜駅に向かうと、なるほど。至るところに標示があり、駅前の喫煙スペースの中には多くの人。煙が充満する中で律義に喫煙する様子が見受けられた。しかし、日が暮れれば悪びれる様子もなく禁止区域でスマホ片手に堂々と喫煙する人影があった。

 受動喫煙の防止に取り組むのは自治体だけではない。JR東日本では一部、寝台列車などを除き全線で禁煙。東京メトロや小田急線は終日、全面禁煙を実施している。

 努力の形跡はあちらこちらで見えるものの、作田理事長は「不十分」と、ばっさり。

「自民党はスモーカーに甘すぎる! 五輪までに公共の建物内を全面禁煙にできなければ、日本は国民の健康も守れないのかと、国際社会から批判されるでしょう」

 決断が迫られている。