いじめをしない子どもに育てるため、親ができることは?(写真はイメージ)

 いじめっ子を生む家庭環境とはどのようなものでしょうか。私は「教育環境設定コンサルタント」として、多くのご家庭の相談に乗ることが多いのですが、上位層の家庭の子どもたちは、よほど馬鹿じゃない限りいじめはしません。「自分のストレスを解消するために他者を不愉快にすることはナンセンスである」ということを教えられてわかっているからです。もちろん、お金持ちでわがままに育て過ぎるということはありえます。

 総体として、どういう人たちが上位層にいるかというと、二文字からなる漢字抽象語を自在に使いこなせて資格試験も通りうるような人たちが、高給上位層になりやすい。つまり大人の話が聞けて、本が読めて文章が書ける人間。抽象語がわかっている家じゃないと、「いじめがナンセンスだ」という説明が言葉でできないと思いませんか? 言葉の理解ですから、ものすごくわかりやすくするか「教育勅語」のようなものでも利用してたたき込むかしないと、お上のほうでも考えるようです。

 しかし上の層といっても、ビジネス層、学者、公務員などいろいろ混じっているわけです。その中のビジネス層、たとえば建築業者やレストランを何軒か個人経営しているような人たちは気合が入っているので、家でも弱者をいたわるような態度を見せることも少ない。どちらかといえば、家でも「社長」をやっているような人が多いのではないでしょうか。いつもなんだかピリピリっとしている。そうすると、細かい話が子どもから親に上がりません。お母さんがお父さんに怯えている場合もあるでしょう。

 反対に、経済的に恵まれていなくて、家に帰ってきても精神的余裕がない人たちは、子どもが何かすると「うるさいな」となる。そういう環境では、親がいじめっ子を叱る余裕もないし、いじめられっ子も親に言うのを諦めてしまうことが多くなるではないでしょうか。

テレビを見ていると「いじめ」が平気になってしまう

 私は、自らのストレス解消のために、人を不愉快にすること、嫌な状態に置くことを楽しむことを「いじめ」だと思いますが、テレビを見ているとこれが平気になってしまうのではないでしょうか。落ち度があったものを、微に入り細にわたりしつこくねちっこく血祭りに上げる。これは、子どもの目には、いじめを容認しているように映るはずです。それどころか、まだ「いじめ」ということが分からない子どもは、これを真似するはずです。子どもの目にはいじめの差異がわからないから、大人はみんなやってると思うでしょう。

 日本人は全体と部分という集合論的考え方が苦手のようです。たとえば「観念」と「理念」では、意味や用い方が異なります。日本国憲法の「理念」とは言っても「観念」とは言いませんよね。「観念」はさまざまな考えごとの全体集合。「理念」はその中の良い部分を指します。「地獄」の反対が「極楽」というのも違います。「地獄」は全体集合概念で、その中に「灼熱地獄」や「針地獄」と部分的な小地獄があるのです。全体集合としての「地獄」の反対の概念は「浄土」で、その中の部分に思ったことや願いごとがすぐ叶う「極楽」があります。

 こんなふうに部分集合と全体集合を比べるのは、千葉県の人口とアメリカ合衆国全体の人口を比べるのと同じで無意味なことなのです。これは日本の教育が悪いと思うのですが、人には良いところも悪いところもある。部分を攻撃されても全体を攻撃されていることにはならないのに、全体を攻撃されたように受け止める。いじめるほうも部分ばかり攻める。

 国会でも、相手の部分を攻撃して全体を攻撃しているような気になっている議員が多いものです。いや、それしか知らないと思われる方もいらっしゃる。もうちょっと冷静な議論はできないのかと思うことがありますが、この様子を、メディアを通じて子どもたちだって当然見ているのです。大人は人をこうやって攻撃するのかと。

 私たちの社会全体にいじめの構造が潜んでいるのです。なぜそうなるのかというと、日本は島国で、日本語のみが共通言語だから。内側に目が向きやすいし、かえってあちこちを細かく差別化する必要性が生じるためではないかと思います。「差別」と「区別」は異なります。「差別」には、おとしめるニュアンスがある。なぜか、それは自分の位置を上にするためです。

「あいつんちは金持ちだ」「きれいなものを着ている」と言えば、そこではそうでない者の差別化が起こる。教室でも「差別化」が起こるのは当然といえます。

「自分にも相手にも弱いところがある」とわかり合うことが大切

 そういうときに、「部分的に服はきれいじゃないけど、心はきれい」というものの見方をすればいいのですが、それを親も教師も教えられないのです。「全部良い」、なんてことは聖者じゃあるまいしありえません。自分にも変なところがある、相手にも変なところがある。自分にも弱いところがある、相手にも弱いところがある。それをわかり合っていくようにすればいいのですが、今の日本のカルチャーはそういうことを重視していませんよね。「弱肉強食」が仕方ないと思われる社会になりきっています。

 だからって、ものすごく誠実に、誰にでも親切に優しく生きていこうとすると、とてもじゃないがこの騙そうとしている人だらけの資本主義社会では生きていけないことでしょう。振り込め詐欺もあります。我々は常に騙されないように生きなければなりません。利益追求組織が考えているのは、会社の内側で働いている人と外側のお客を、いかにめくらますかということ。そして、その手段は「言語」です。書類をしっかり読めない人たちは資格試験に通らず、低位の労働者になるしかなくなってしまう。

 津波と同じで想定外の話ではありますが、将来AIがもしクラッシュしたら、そのとき人間があえて生きていくためにできることは何でしょうか? それは隣の人と仲良くすることに他ならないと思います。昔から「村八分」という言葉はありますが、人間は協力し合わないと生きられない存在です。教育やメディアなど、大人の世界ではそういうビジョンやメッセージがあまりにも希薄すぎると思うのです。

 隣の人の悪口を言うこと――たとえば韓国人が日本人の、日本人が韓国人の悪口を言うなんてことは、外側から大きなビジョンで見たら馬鹿馬鹿しいことですよね。隣の国の悪口を平気で言う国民を、世界の他の地域の人たちはどう見ることか。人を不愉快にさせるとその人に恨みが残るし、不愉快にさせた側には何のメリットもありません。そんなことを続けていると、最後は誰も相手にしてくれなくなります。

 それに本当は、いじめは資本主義社会においても得になりません。圧力で屈せさせることはできるけれど、うまいこと商品を買っていただくということができないからです。

 やはり、「いじめをしても何も得はない」と、親が教えるべきなのだと思います。


<プロフィール>
松永暢史(まつなが・のぶふみ)
1957年東京都中野区生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒。教育環境設定コンサルタント。「受験のプロ」として、音読法、作文法、サイコロ学習法などさまざまな学習メソッドを開発。教育や学習の悩みに答える教育相談事務所V-net(ブイネット)を主催。著書に『男の子を伸ばす母親は、ここが違う!』(扶桑社)など多数。最近刊は、『新男の子を伸ばす母親は、ここが違う!』(扶桑社)、『将来賢くなる子どもは、遊び方が違う』(ベストセラーズ)、『マンガで一発回答 2020年大学入試改革丸わかりBOOK』(ワニ・プラス)など。