複業(マルチワーク)、継業、デュアルライフ、ダウンシフターズ、嫁移住、孫ターン─。

 何の意味かおわかりだろうか。すべて“地方移住”にまつわる新しい潮流を表す言葉たちだ。つまり、それだけ現在の移住が多様な価値観や生き方、働き方を生みだしているということ。

自治体が移住者向けに『継業』のチラシを作成

 移住相談窓口を開設し、年に400回もの移住相談会を実施している東京・有楽町にある『ふるさと回帰支援センター』の利用者もここ数年で大きく増加。

 2010年には2000人程度だった来訪者数は、’14年に1万人、昨年’16年に2万人を超えている。

 同センターの副事務局長・嵩和雄氏は、現在の状況をこう語る。

明らかに20代から40代の若者層が移住を希望し、実現しています。かつては定年後の悠々自適な田舎暮らしが主流だったけれど、いまの移住希望者は田舎で働こうと思っている。ITの発達でオフィスには出社しないノマド(遊牧民)ワークも可能だし、もともと田舎にあった商売(店舗、職人技など)を継ぐ『継業』も始まった。いくつかの職業をかけ持ちして生活費を稼ぐ複業スタイルも当たり前になりました。移住者を歓迎する自治体も圧倒的に増えたし、震災後は西日本への移住希望者が増えた。その流れはこれからも当分変わらないと思います」

 嵩氏は、さまざまな移住の事例を語ってくれた。

 沖縄県の国頭村では地域唯一の商店が店をたたむことに。それでは高齢者の買い物難民が出てしまうので、移住者夫妻が店を引き継ぐことになった。秋田県由利本荘市では老夫婦が長く営んだパン屋さんをたたむことに。自治体主導で移住者に向けて店を継ぐ人を募集するチラシを作成している。

 また、岡山県美作町ではよその家の草刈り(1日9000円)、カフェ店員、高齢者の生活支援、NPO職員など、複数の仕事をこなす複業で立派に自活している移住者もいる。

 かつて移住というと職探しが最初の難関だったが、工夫と努力次第で、ずいぶん状況は変わってきたのだ。

移住ブームで自治体もアピール合戦

 移住の歴史を振り返ってみよう。’60~’70年代は定年後の移住が大半だった。田舎を目指す若者には、学生運動からのドロップアウト組が目立ち、地元になじむ意識は薄かった。

 ’80年代はバブル期で、田舎でもリゾートブームや不動産ブームが到来。’87年創刊の『田舎暮らしの本』(宝島社)でも、田舎の物件情報を紹介していた。

 ’90年代に入るとポストバブル。物欲の反動で精神的豊かさが求められるようになる。“定年帰農”という言葉がブームとなり、多様な価値観やライフスタイルを提案する『ソトコト』(木楽社)が発刊された。

 2000年代に入ると、団塊の世代が一斉に定年を迎える2007年問題が浮上。受け皿としての移住に光が当たった。自治体が空き家バンクを設け、移住担当窓口を置くようになったのは、このころのこと。

『田舎暮らしの本』の編集長・柳順一氏は、こう振り返る。

1度、本誌の編集部を離れて’08年に戻ってきたときの驚きは忘れられません。全国の自治体がなんでこんなに! と思うほどに移住受け入れに積極的になっていた。以前は役所に移住相談窓口なんてなかったし、物件を買わないと移住は難しかったんです。ところが空き家を貸してくれるシステムや、移住支援制度が次々とできた。このあたりから移住のハードルはグッと低くなりました

 そして東日本大震災と福島原発事故があった’11年からは、子育て世代や若者たちの視線がいっせいに西日本に向く。NPOなどへの就職も人気になったし、第一次産業を応援しようという機運も盛り上がった。普段は都会に住んでいても、いつでも遊びに行ける田舎を持つ2拠点生活『デュアルライフ』が人気となった。年に何度も都市と田舎を往復するスタイルを、解剖学者の養老孟司氏は「平成の参勤交代」と呼ぶ。

 かつて東京や大阪から故郷に戻るのは「負け組」といわれ、肩身の狭いものだった。ところが、今ではその意識も大きく変わった。

 ’14年には、民間シンクタンク『日本創成会議』座長の増田寛也氏が「2040年に消滅する自治体」を名指しで公表し、自治体も移住受け入れに本気になった。

 いま、移住者はむしろ地域の希望の星なのだ。

都会から高校生が島根県へ留学!?

島根県では明らかに風向きが変わりました。県内の小中高の教育を魅力化して留学生を招き入れよう。定住してもらおうという動きが本格的になってきた。この動きの中心になってくれているのは、移住してきた若者たちです

 そう語るのは島根県教育庁社会教育課の江角学氏だ。

20011年以降、移住希望地は西日本へシフト

 島根県は人口70万人を割り、東京の練馬区より少なくなった。「どこにあるか最も知られていない県」といわれることもある。ところが人口2300人余りの隠岐島の海士町で約10年前に始まった「高校魅力化」の取り組みが成功し、同町の隠岐島前高校には毎年定員いっぱいの25人が全国から『島留学』してくる。

 島で3年間生活する高校生たちは「島親」と呼ばれる地元民にお世話になり、たくましく成長する。島根県では’15年から全県でこの取り組みに乗り出し、’16年には県内に約200人の「しまね留学」生を招き入れた。

 これまで地域活性化は、産業振興の文脈でしか語られなかった。それでは環境破壊や地域の文化風習の喪失にもつながる。地方を荒んだミニ都市化するだけだ。

 ところが教育という切り口ならば、地域の文化を伝えられ、故郷を愛する子どもを育てることができる。

 それができるのはよそ者の視点を持ち、地域の魅力を伝えられる移住者たちだ。

 移住者が新たな移住者を招き、故郷を愛する子どもをも育てる。まさに理想的な好循環が生まれつつある。

 日本はいま急激な下り坂を下っている。総人口は’06年をピークに次の100年で3分の1の4000万人になるといわれる。東京も2020年以降、人口減少に転じる予測だ。

 上り坂(人口増、経済成長)の時代には、政策として若者は都会に集められた。地方から東京を目指して集団就職列車が何本も走り、職業安定所は全国ネットワーク化された。上り列車の先に未来があったのだ。

 それが反転した下り坂の時代に、人はどこに未来を見ようとするだろうか。

 高収入のかわりに過剰労働や時間に追われる都会の生活を自ら捨て、地方で農的な生活を送るダウンシフターズ(=減速する人)という生き方も生まれてきた。

 しかし、地方で生きるためには生業が必要だ。その地にはない仕事を創らなければならない。その土地で役に立つこと、地域の課題を解決すること、その先に仕事がある。そして「ありがとう」と感謝されることで生きがいが生まれる。多様な価値観を持った人たちは地方に活路を見いだす。

 安心安全な環境で子育てがしたい。通勤に時間を使うよりも、趣味の時間や家族との時間を大切にしたい。そんな“ほどよい生活”を求めて─。下り列車に乗って未来を見つけようとするのが、新しい時代の潮流だ。移住新時代。その詳細を探っていこう。

文/ノンフィクション作家 神山典士