沖縄県警部長・荒井退造氏の葬儀。遺骨はなく、かわりに沖縄の石が帰ってきた(荒井氏関係者提供)

 昭和20年4月、沖縄本島に米軍が上陸、「ありったけの地獄を集めた戦場」─米軍の戦史にそう刻まれた。陸海空からのおびただしい攻撃に青い海は赤く染まった。

 同年6月23日に日本軍の沖縄での組織的な戦闘が終わったことから、沖縄県ではこの日を「慰霊の日」として、戦没者を追悼する。

 沖縄戦の犠牲者は約20万人、県民の4人に1人が命を落とした。軍人だけではなく武器を持たない女性と子ども、職務で他県から赴任してきた民間人も含まれていた。

 最愛の家族を沖縄へと送り出した心情とは。また、遺族はその死をどう受け止め、戦後を生きてきたのだろうか。

 ある3人の県外出身者とその家族がいる。沖縄県知事の島田叡(享年43)、沖縄県警部長(現・県警本部長)の荒井退造(享年44)、海軍司令官の大田実中将(享年54)。

沖縄戦の2か月前に赴任

 民間人である島田と荒井は、二人三脚で県民の命を守ろうと約7万人を県外に、約15万人を本島北部に疎開させ、20万人以上の命を救った。

 南部に撤退し、県庁を解散した際も、島田は部下に“沖縄県を立て直すためにも生きなさい”と、降伏し生き残るように伝えた。降伏など許されない時代にもかかわらず、知事自らが発した背景には多くの県民の死を目の当たりにしたことがあった。

「島田さんは親しい人に“県民の力になれなかった県知事は後にも先にも僕ぐらい”と言っていたそうです」

 そう明かすのは、ノンフィクション作家の田村洋三氏だ。読売新聞記者時代の昭和50年代、『新聞記者が語り継ぐ戦争』という連載を企画し、その中で島田と荒井を取材した。

 島田は兵庫県神戸市須磨区出身。元軍医の父が開業する洋館の医院で、生まれ育った。

 沖縄戦のわずか2か月前、島田は大阪府の内政部長から最後の国選知事として沖縄に赴任した。

 昭和20年1月11日、大阪府の官舎で美喜子夫人と2人の娘との朝食中に、島田は上司の呼び出しを受けたという。

島田、荒井と沖縄戦で殉職した県職員らを祀る「島守の塔」。左奥は両氏の終焉の地を示す碑があるものの、最期の場所は不明なまま。生存した県職員や県民の寄付で昭和26年に建立された

 田村氏の著書『沖縄の島守』には、このときのやりとりが記されている。

 上司からの沖縄県知事の内命を受け当然、夫人は納得がいかない。島田は「誰かが行かないといけないとなれば、言われた俺が断るわけにはいかない。嫌だから誰かに行けとはいえない」と告げた。

「島田さんは家族に相談もなしに即決してしまった。夫人はこの拝命に対し、ひどいと悲しんだそうです」(田村氏)

 さらに、追い打ちをかけたのはその別れ方だという。

「島田さんは“仕事を片づけたらすぐに帰る”と告げたため、家族の見送りは不十分。沖縄についたら仕事に追われ、地上戦も始まり、帰るどころではなくなった。手紙も1通しか届いていない」(田村氏)

 しかし、島田は出発時にピストル2丁、日本刀、青酸カリを自決用に持っていたといい、覚悟は決めていたようだ。  

 島田が亡くなったとき、夫人は36歳。10代の娘2人を抱え、混乱に投げ出された。

「残された家族は戦後は東京・吉祥寺の都営住宅に住んでいました。そこで女学生を下宿させ、雑貨を販売するなど必死で働かれたようです」

 田村氏はかつて夫人に取材を試みた。しかし、「話すことはありません」と言われ、ついにかなわなかった。

 その後、田村氏が夫人の兄から聞いたところによると、

「夫人はお兄さんに、顕彰や取材は沖縄戦で亡くなった多くの人を考えると遠慮すべき、と言っていたそう。しかし、実のところは“島田のことを思い出すのがつらい”という気持ちがあったようです」

 夫人が島田の慰霊祭に出席したのは1度だけだった。

 そしてもうひとり。荒井退造は栃木県宇都宮市出身。島田より1年7か月前、県警部長として沖縄県に赴任した。

沖縄戦の犠牲者は約40万人。県民の4分の1が命を落とした

「退造さんは親しい人から“たーさん”と呼ばれ、穏やかな優しい人だったそうです。父親を早くに亡くし、昼は警察官、夜は明治大学で学び、文官高等試験(現在の国家公務員1種試験)に1度で合格した家族の自慢だった。いずれは栃木で働きたい、とも考えていたみたいですよ」

 と話すのは荒井の兄の孫の荒井拓男さん(68)。

 栃木県では近年、荒井の功績を顕彰する動きが広がる。『荒井退造顕彰事業実行委員会』会長で親戚の荒井俊典さん(79)は、沖縄赴任後、昭和19年1月に1度だけ帰京した荒井の話を伝える。

「このとき、小学生だった長男とともに栃木に帰ったそうです。その晩は(母親の)ワカさんと親子孫3人で川の字になって寝た、それが母と息子の最後の時間でした」

 島田と荒井の生死や最期の地は今も不明のままだ……。

「ワカさんは生前“息子は死んでない、沖縄で生きている”と言い続け、退造さんの死を信じなかったそうです」(荒井俊典さん)

軍人の妻として

 終戦時、荒井夫人は33歳。島田夫人同様、夫のことはほとんど語ることはなかった。

 一方で軍人の妻は異なる。「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文を打ったことで知られる大田実海軍中将。

 千葉県長柄町出身で、家に帰れば11人の子を持つ子煩悩な父親だったという。

 夫人の大田かつさんと親交があったという元防衛大学校教授の平間洋一氏(84)は生前のかつさんの様子を伝える。

「戦後は行商などをし、女手ひとつで子どもを育てたと聞きました。市営住宅でひとり暮らしでしたが、80代という年齢を感じさせず、性格も豪快でおおらかな女性でした」

 しかし、かつさんいわく

「軍人の夫婦は外に出たら“夫にあらず、妻にあらず”なんだそうです」と平間氏。

 あるエピソードを記憶している。自衛隊員が殉職し、遺族が泣き悲しむシーンがテレビで放送されたときのこと。

「かつさんは“夫が死ぬことは悲しいですが軍人の妻として人前で悲しみに耐えることが必要”と私に言ったことが、強く印象に残っています」

 胸の内まではわからない。

「島田さんも荒井さんも家族の仲がよく、戦争がなければ引き裂かれることはありませんでした。遺族のことを考えると非常につらい」(田村氏)

 夫や子どもを亡くした多くの妻や母が涙に暮れ、涙に耐えながら戦後を生きた。