テレビをつければ、いまやジャニーズアイドルの姿を見ない日はない。カッコいい男のコを指して「ジャニーズ系」と呼ぶことも定着した。当たり前のように存在する芸能界の一大勢力“ジャニーズ”は、いかにして作り上げられてきたのか。昭和ジャニーズを代表するグループ『シブがき隊』の1人、布川敏和が当時を振り返る――
「中学3年生のときに、仲がよくていつも一緒に遊んでいた友達が、ジャニーズJr.募集の広告が載っている週刊誌を持ってきたんです」

 布川敏和の“ジャニーズドリーム”の始まりは、親友がもたらしたものだった。

「トシちゃんがデビューした年でしたが、僕たちはジャニーズJr.なんて知りませんでした。友達が応募するついでに僕の写真も一緒に送ってくれたんです」

 その後何日かして、友達のところに「今度の日曜日にテレビ朝日のリハーサル室に布川クンと一緒に来なさい」と、ジャニー喜多川氏から直接電話がかかってきたという。その時点でも、布川はジャニー喜多川が何者か知らなかった。

「なんだソレ? って思いながら行ってみると、広いリハーサル室でJr.たちが踊りのレッスンをしていてね。その横でオーディションというか面接があって、何を聞かれたか覚えてないけど、話が終わったら、ジャニーさんが“ユーたちも踊ってっちゃいなよ”と言うんですね」

 ダンスなんかフォークダンスしかやったことがなかった2人は、振り付けの先生に簡単に教えてもらい、先輩たちに交じって踊ったのだったが、それでもう合格。そのままジャニーズに入ってしまったという。なんともあっけないものだ。

「ヒマでしたから、学校の授業が終わるとレッスンに行ってました。友達と違って僕はアイドルになる気はなかったから、遊びに行く感覚でしたね。ところが2回目のレッスンが終わったときに、ジャニーさんが“来週、日劇でたのきんのコンサートがあるから”って言うんです。さらに“そこにユーたち出るから。前日の夕方に日劇に入って。振り付けして、次の日は本番だから”って。驚いたっていうか、ワケがわかんなかった」

 当たり前だが、まだタレントになった感覚もなく、しかも中学生だ。日劇の初舞台の興奮は今でも忘れられないという。

「ドキドキしながら幕が上がると、ワァー、キャーというすごい歓声と無数のペンライトの明かり、紙テープの嵐。なんだ、この世界は、と全身に鳥肌が立ちました。目の前ではトシちゃん、マッチ、ヨッちゃんが歌っている。僕たちは呆気にとられながらも、俺はもう、この人たちみたいになるしかないんだな、って思うわけです。それがジャニーさんの作戦だったんですね」

 まだ子どもだから、好きじゃないことに一生懸命にはなれない。好きじゃなければ毎週レッスンに通ったり、ダンスや歌がうまくなろうなんて思わない。ジャニー氏はそんな子どもの心理を理解していたという。

「歌もダンスも経験がない素人をいきなりステージに立たせちゃうんです。それで何百人、何千人という生の歓声を聞かせるんです。それが自分たちに向けられたモノじゃないとわかっていますが、俺もこうなりたいと思うんです。子どもたちに、まず最初にその感動を味わわせて、体感させて、ああなりたいというヤル気を引っ張り出すんです。そうやってタレントを育てていくのがうまいんですよ」

 日劇に出演してからしばらくレッスンに行ってなかったある日、布川がテレビを見ていると、歌番組でマッチの後ろで踊っている東山紀之やJr.たちを発見する。なんで俺たちは呼ばれないのか不安にかられ、ジャニー氏に電話をかけてみた。するとジャニー氏は布川たちの連絡先を書いた紙をなくしてしまい、連絡できなかったのだという。

「そのとき、“今度TBSで『金八先生』の後番組が始まるから、そのオーディションに来て”と言われて。お芝居なんかやったことないし、ドラマに出るなんてことも考えたことがなかったから、無理だなと思っていたんですが、なぜか受かっちゃって。それで顔合わせに行ったら、本木(雅弘)と薬丸(裕英)もいたんですよ」

“せんぱちトリオ”の誕生だ。たのきんの弟分だということで、各アイドル雑誌も取材に来て、ファンもどんどん増えていった。『シブがき隊』となったのはその1年後。

「“ユーたちデビューしちゃいなよ、3人で”ということで昭和57年5月5日にデビューしたんですが、ほんとバタバタっていう感じでした」

 ジャニーズを離れ、結婚も離婚も経験した布川がいま思うのは、

「ジャニーズ事務所でよかった。ジャニーさん、メリーさん、今も付き合いがあるマネジャーさん、みんなに感謝してます。そして友達にいちばん感謝してますね」

昭和57年当時16歳だった左からモックン、フックン、ヤックン
昭和57年当時16歳だった左からモックン、フックン、ヤックン