昨日まで素人だった少年少女がカメラの前で歌い、芸能プロダクションかレコード会社のプラカードが上がれば芸能人になれる。AKBやEXILE、モーニング娘。よりもはるか以前、素人オーディションを放送した草分け的な番組があった。当時の熱気、人間ドラマ、そして伝説は、今も語り継がれている。伝説の番組を、関係者の話で振り返ってみよう。

これで終わったと思いました

『ひまわり娘』でデビュー1年後、昭和50年当時の伊藤
『ひまわり娘』でデビュー1年後、昭和50年当時の伊藤
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 伊藤咲子は小さいころから歌が大好きで、中学に入ると、授業の合間の休み時間には、トイレに友達を集めて、ミニコンサートを開いていたという。

「当時ヒットした歌謡曲はほとんどマスターしてましたから、友達のリクエストに応えて歌ってました。みんなが乗せるので私も気持ちよくなっちゃうし、トイレの中はなんか秘密のコンサートのような雰囲気があって、ほどよくエコーも効いていて気持ちよく歌えるんですよ」

 その友人たちに「伊藤ちゃんが出ないで誰が出るんだ」と、背中を押されて、『スタ誕』に応募ハガキを出したのだが、予選出場通知が届いたのは1年近くたったころだった。ハガキを出したことさえ忘れていたうえに、予選日は4日後。かなり慌てたというが、

「行く気は満々。両親には何も話してなくて、とりあえず日曜日に行ってくるねと。親もよくわかってなかったから、いいんじゃないって」

 予選会場は何百人という応募者であふれかえっていた。

「その光景を見て帰っちゃう人もいたくらいです。審査は番組のプロデューサーやスタッフの前で歌うんですが、1人ワンフレーズ歌って、次から次へ進んでいくんです。1回目で100人になり2回目で14人に絞られます。この14人がテレビ予選に出られるんです」

 テレビ予選で伊藤が歌った曲は、小柳ルミ子の『漁火恋歌』。歌謡曲ではあったが演歌っぽく、高音の裏声が特徴の曲だ。しかし、合格点に達することができずに不合格。

「覚悟はしていました。そんなもんだよね、いい思い出になったしねと、特に落ち込むことはありませんでした」

 ところが、ここからドラマが始まる。プロデューサーが伊藤を含め、その日、不合格になった5人に対して、次の日曜日にまた予選に来るようにと言ったのだった。伊藤は、「よし、やった」と思ったが、両親はさすがに納得せず、

「1回落ちて、それが放送されるんだったら、その先はありえない。絶対ダメ。もう高校受験のことを考えなさい」

 と大反対。しかし、伊藤も引き下がることはなく、もう1回だけだからと、どうにか許してもらうことに。しかし当日、会場に行くと、ほかの4人は来ておらず、伊藤に若干のアドバンテージが訪れる。そして予選を突破。このとき選んだ曲は朱里エイコの『見捨てられた子のように』というポップス系の歌。

「子どもながらも『漁火恋歌』はちょっと違うかもと感じていたし、前回、審査員に声が合っていないみたいなことを言われたので、変えました」

 それが功を奏したのか、今度は高得点を獲得し、決戦大会にも進むことが決まった。このとき、決戦大会に臨んだのは12人。

「私が歌うのは12番目でいちばん最後でした。それまでの『スタ誕』を見ていて、プラカードが上がるのはせいぜい2、3人でした。その日は1番目の人から4番目まで続けて上がっちゃったんです。これで終わったと思いました。5人も合格はありえないと思っていましたから」

 実は本番前に下見会という場があり、それはプロダクションとレコード会社の人の前で出場者たちが1度歌を披露するのだが、この時点で、おおよそ結果が決まっていたのだ。本番で緊張して実力が出せない人もいるだろうと考えられた策だろうが、知らないのは本人たちだけだった。

 5番から11番までまったくプラカードが上がらず、完全に意気消沈してしまった伊藤は、歌い終わって上がったお立ち台の上で号泣してしまった。それは、

「決戦大会に出ていた人はホリプロとサンミュージックのレッスンに通える特典があったんです。私は家がホリプロに近かったので、毎日通っていました。そんな楽しい日々が今日で終わっちゃう。明日からまた地味な学校生活に戻って、受験勉強か、と思ったら涙がワァーッと出てきちゃいました」

 しかしプラカードはいくつも上がり、それを見た彼女はまた号泣したのだった。

「私だけじゃないと思いますが、『スタ誕』がなかったら今の私はいなかったし、あの素晴らしい番組から歌手になれたことを感謝しますし、誇りに思っています」

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〈解説〉『スター誕生!』とは?

 1971(昭和46)年、新しいタイプのオーディション番組が始まった。当時30代で、放送作家・作詞家として頭角を現していた阿久悠が「本格的な歌手を生み出したい」と企画した『スター誕生!』(日本テレビ系)。審査員には阿久をはじめ、都倉俊一、森田公一、小林亜星、ジェームス三木、服部克久、かまやつひろしなど、大物がズラリ。司会は『コント55号』で人気絶頂だった萩本欽一が抜擢され約9年間、番組の顔を務めた。2代目はタモリと谷隼人、3代目には坂本九と『スタ誕』からデビューした石野真子が、4代目には横山やすしと西川きよしが起用された。

 芸能界が最も輝いていた時代に、新人歌手の登竜門ながら、その中心的な役割も担う番組だった。素人が参加することで、テレビと視聴者の距離を縮めた。ハガキの応募総数は200万枚以上。予選参加者は約60万組。テレビに出演したのは約4000人。デビューしたのは88組、92人。番組終了の1983(昭和58)年9月まで、12年間続いて最高視聴率は28.1%を記録した。

 『スタ誕』の功績を、阿久は著書の中でこのように言い切っている。

《「スター誕生」以後のアイドルが、どこか同じ色合い、雰囲気を感じさせるのに比べて、「スター誕生」は、森昌子であり、桜田淳子であり、山口百恵であり、伊藤咲子であり、岩崎宏美であり、ピンク・レディーであり、小泉今日子であり、中森明菜であり、共通するのはデビュー時の年齢ぐらいで、見事に多色刷りであると自負している》