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 1960年代に“スパーク3人娘”と呼ばれ、国民的アイドルだった園まり、中尾ミエ、伊東ゆかり。それから約半世紀、園は、今年42年ぶりに映画出演を果たした。

「今のほうが歌っているときに充実感があり、自分はこんな表現者になりたかったんだと、そんな思いがこみ上げてきています」

 今年71歳になった園まりは、生き生きとした表情でこう語る。

 98歳という高齢の母親を介護しながら、現在、再び歌手として活躍中の彼女に半世紀を振り返ってもらった。

「父はオペラ歌手になりたかった夢を私に託したんだと思いますが、私は父が敷いてくれたレールの上を走っていただけだったんです。始まりは小学5年生のとき。安西愛子さんの児童合唱団に入らされました」

 小さな児童合唱団の次は、レコード会社所属の児童合唱団に入らされた。実は、そのときにレコードデビューも果たしている。1曲だけだったが、ソロで曲名は『つゆの玉ころり』という童謡。11年前に復帰コンサートを開いたとき、彼女はオープニングでこの曲を歌っている。

 高校は音楽学校に進み、クラシックを学んだ。そして父親が最後に門を叩いたのは、芸能事務所の渡辺プロダクションだった。

「ある日、私は父にいきなりナベプロの社長宅に連れて行かれたんです。わけもわからないまま社長宅に上がったら、作曲家の宮川泰先生がピアノの前でスタンバイしていて、そこで歌ったんです」

 そこには渡辺プロダクションの社長も同席していた。つまり、簡単なオーディションだったわけで、彼女は合格してそのままナベプロ所属の歌手となった。プロの歌手となった園には、歌以外でもテレビ番組のアシスタントであったり、ドラマ出演であったり、次々と仕事が舞い込むことになった。

「歌手になりたいと思ったこともなかったし、まして女優になるなんて意識したこともありませんでした。突然、荒波の中にポーンと投げ出された感じでしたね」

 自分の置かれた状況に戸惑うどころか、考える余裕もなかったというが、同じころに芸能界入りした中尾、伊東とともに“3人娘”と名づけられ、瞬く間に人気アイドルに。

 しかし、20歳になったとき、彼女に転機が訪れた。それまではポップスしか歌ってこなかったが、初めて歌った歌謡曲であり、1964年のデビュー曲『何も云わないで』が大ヒット。それをきっかけに、3人娘はそれぞれの道を歩み始めることとなった。

「それまでは親から与えられたものだけで生きてきたんだけど、20歳になったときに、これからは自分の意志をしっかり持っていこうと決めたんです」

 2曲目の『逢いたくて逢いたくて』もヒットすると、彼女は押しも押されもせぬ国民的アイドルとなり、行く先々で人だかりができるようになった。

 残念なことに結婚には至らなかったが、誰もが知っている人気作曲家との恋愛も経験した。しかし、栄枯盛衰はつきもの。やがて歌もヒットしなくなり、いつしか「キャバレーの女王」と呼ばれるほど、仕事はキャバレー回りの営業だけとなった。

「表現者として行き詰まってしまい、宮川先生に教えてもらった歌の味つけを膨らますことができませんでした。それからは、自分から仕事を遠ざけていきました。ただ、キャバレーだけはやりました。だって私の歌はムード歌謡ですから、売れていたころからやっていましたし、まったく抵抗はなかったです」

 新曲が出て、キャンペーンをやってという毎回、判で押したような仕事にむなしさも感じていた中で、芸能界以外の友人もできた。そういった人たちと接するように。

「目からウロコが落ち、耳から栓がとれ、友人からこのままだと何もできないままボケて終わっちゃうよ、今がチャンスだと言われたんです」