生活保護廃止処分の取り消しを求める裁判後、熊本地裁前で勝訴の旗を掲げる原告側弁護士ら

 専門学校に通う孫の収入増加を理由に、熊本県は同居する高齢夫婦の生活保護受給を打ち切った。生活に困窮した世帯主の男性は、打ち切り処分の取り消しを求める訴訟を決意し、ついにその判決が下った。生活困窮者の支援活動を行う『つくろい東京ファンド』の小林美穂子氏によるレポート。

育った環境で将来の選択肢が狭まる現実

 10月3日、熊本地裁で生活保護廃止処分の取り消しを求める裁判の判決があった。

 原告の勝訴。

 熊本地裁は原告の生活保護を廃止した熊本県(被告)の処分を「世帯の自立という長期的な視点に欠け、違法」と断じ、処分の取り消しを命じる判決を下した。

 この裁判は生活保護を利用していた熊本県在住の高齢夫婦が、同居していた孫が准看護師になって収入が増えたために生活保護が打ち切られてしまい困窮。准看護師として働きながら学び、正看護師を目指していた孫も一時、看護学校の休学を余儀なくされたケースだ。

 この事件には問題点や矛盾点がたくさんある。勝訴は当然のこととして、ここに到るまでの数年間の原告夫婦やお孫さんが強いられた精神的負担や苦痛は想像するに余りある。

高齢の一市民vs熊本県という構図の中で

 私の手元には、熊本地裁で言い渡された判決がある。

 普段、テレビドラマの中でしか裁判というものを見ない私は、法律家同士の間で交わされる独特な言語のやりとりに目を白黒させながらも夢中で判決を読み進んだ。

 まず、裁判素人の私が「なんかイヤだな」と眉をひそめたのが、原告側と被告側(熊本県)の代理人の数。

 訴えを起こした高齢男性には7名の弁護士がタッグを組んだ。しかし、被告である熊本県側には18人もの代理人が名を連ねている。実に2倍以上の数で圧倒しているわけで、そもそも高齢男性1名vs熊本県という段階で”力の差”は歴然としているのに、そこに加えてこれだけの代理人を集めてくるやり方にアンフェアさを感じた。数より質だとは思う。しかし、それでも権力を持つ側が数で威圧している印象は拭えない。

 そんな中、2年間の裁判を耐え抜いた原告と、7人の弁護団に惜しみない拍手を送りたい。判決を言い渡した裁判官の正義に対しても。

 高齢にも関わらず、県を相手取って裁判を起こした男性には闘う理由があった。生活保護廃止になって閉ざされたのは自分たちの生活だけでなく、夢の実現のために歯を食いしばって頑張ってきた大切な孫の将来でもあったからだ。

准看護師から正看護師へ、働きながら学ぶ日々

 原告の70代男性は、妻と孫との三人暮らしだった。

 2014年7月に生活保護を申請し、8月から受給している。原告の生活保護申請からさかのぼること4か月前、孫は准看護科(二年制)に入学している。そこで、福祉事務所は孫が就学して資格取得をし、最終的に自立するという長期的目標を立て、就学が続けられるよう「世帯分離」をして孫を生活保護から引き離した。

 生活保護における「世帯分離」とは、生活保護利用世帯の子どもが大学や専修学校に進学する際、家族とは別世帯とみなす制度だ。現行の生活保護法では、生活保護を利用しながらの大学や専修学校への進学がまだ認められていないため、国がとった例外措置である。

 世帯分離になると、生活保護利用世帯と同居しながらも大学・専修学校などへの進学ができ、就労しても収入申告の対象にはならない。

 孫は祖父母と暮らしながら、准看護科で学びながら病院に勤務し、学費や生活費などを工面している。

 2016年に准看護科を卒業した孫は、看護科(3年)に入学。引き続き病院で勤務しながら専門的な学びを深めていく。朝6時半に家を出て夜9時半に帰宅する毎日。土日は学校が休校なため、病院勤務をし、休みなく勉強と仕事に明け暮れているのを、福祉事務所のケースワーカーは祖父母から聴取している。

 その勤勉さや人柄、真面目な働きぶりは勤務先でも評価され、卒業後の勤務も約束されている。

給与増によって世帯分離が解除され、保護廃止処分に

 2017年1月にケース会議を経たのちの2月14日、福祉事務所は孫の収入が増え、健康保険や年金にも加入できたことを理由に、就学途中であるにも関わらず、「世帯の収入が最低生活費を上回るため」として、世帯分離を解除し、原告夫婦の生活保護を廃止した。

 つまり、孫の収入で祖父母を養えということなのだが、しかし考えてもらいたい。

 孫の収入は確かに14万~19万と増えていたのだが、看護学校の実習が始まれば収入が激減することが分かっていた。そのため、事前に働けなくなる近い未来のために貯金をしておこうと思うのは至極当たり前のことと思われる。むしろ、計画性が素晴らしい。

 それなのに、福祉事務所は世帯分離を解除し、孫が祖父母を養えば生活ができるはずと、祖父母の生活保護を廃止してしまった。その処分が意味することは……。

1.孫は看護学校での就学を断念しなくてはならなくなる

 祖父母を養うために収入を使えば、看護学校での就学は続けられない。准看護師の資格のみでは将来の選択肢は限られる。もともと福祉事務所が「5年間の就学ののち自立」という長期プランを立てた上で世帯分離をしているのに、目的に達していない状態で世帯分離解除&生活保護打ち切りは矛盾している。

2.孫が就学を続ければ、祖父母はただちに困窮するのが明白

 仮に孫が祖父母を養うのを拒否し、自分の将来を優先した場合、自分を養育してくれた祖父母が困窮するのが目に見えている。高齢であるのに医療も受けられないだろう。これから長く続く自分の人生か、養育してくれた祖父母か、そんな究極の選択を迫られた孫の気持ち、また、自分たちの存在が孫の将来を阻害するという苦悩に引き裂かれたであろう原告夫婦の気持ちを、福祉事務所は考えたのだろうか。

自宅を訪問、孫の部屋のドアを叩き「出てきなさい!」

 保護を廃止する直前に行われた1月26日のケース診断会議では、孫の収入状況にのみ焦点が絞られ、ケースワーカーの誰からも、上記に記したような懸念や疑問は発せられていない。私はそのことにあ然とする。

 世帯分離を解除し、原告夫婦の生活保護を廃止することがどういうことか、こんな簡単なことが福祉事務所の職員たちの頭には上らなかったのかと驚くが、弁護団の一人に取材した私は言葉を失うほどに驚いた。

 原告夫婦の生活保護が廃止になってから8か月後の2017年10月、どうしても生活が立ち行かなくなった原告夫婦は、やむにやまれず再び生活保護の申請をした。

 申請後、福祉事務所の職員が原告宅を訪問している。その際、孫が怖がって部屋に閉じこもっていると、30分にも渡ってそのドアを叩き「出てきなさい!」などと怒鳴り、家にお金を入れることを迫ったというのだ。

 消費者金融の取り立てのようなことを、こともあろうに福祉事務所の職員がしていることに絶句した。

 究極の選択を迫られた上、控え目に言ってもトラウマ級の福祉事務所による暴力的な行為の果てに、孫は精神的に不安定になり、一年間の休学を余儀なくされている。

 貧しい環境下でどんなにあがいても、どんなに歯を食いしばって前向きに頑張っても、この国は許してくれないのだ、そう絶望したに違いない。

 実際は、孫が自分の生活を犠牲にしてまで祖父母を養わなければいけないという法律的な義務はない。このことは地裁の判決文でも裁判官が明確に指摘している。

 家族が受けた傷、失ったものはあまりにも大きすぎた。だから老いた原告は、大きな権力を相手に、ドン・キホーテのように闘いを挑んだのだと、私は判決を読んでいて感じた。

粉々になったものを修復するために

 弁護団の一人である尾藤廣喜弁護士は取材に対し、力を込めて繰り返した。

「世帯分離の目的を達していないのに、勝手に解除してはいけないんですよ。行政は一貫性がなくてはいけないんです。自由裁量で(人の運命を)決めてはならない」

 子どもの貧困対策法は、「子どもの現在及び将来がその生まれ育った環境によって左右されることのない社会を実現する」ことを基本理念として掲げ、子どもの貧困対策を進めることを国や自治体の責務と定められている。同法の理念に従い、「長期的・俯瞰的な視点」に立った判断が求められている。

 幸い、孫は一年の休学ののちに復学し、今も同じ病院で職員たちに支えられながら働き、そして、ついに念願の正看護師の資格を取得した。それまでの努力や希望をどれだけ粉々にされてボロボロになっても、再び立ち上がった若者に心からの敬意を表し、祝福したい。

 孫が看護師として自立し、自分の人生を歩いて行くこと、それは2年もの月日を大きな力を相手に闘った祖父母の切実な願いでもあるだろう。

 さて、一方で家族をボロボロにした張本人、熊本県にお願いがある。

 控訴はしないでいただきたい。これ以上、原告やお孫さんを苦しめるのを控えてほしい。

 福祉事務所ができることは、本ケースを真摯に検証し、反省し、当事者たちに詫びることだ。似たケースがあったときに十分に話し合って、表層ではなく、当事者たちにとってなにが最良を考え、伴走することだ。

 公助が自助・共助の必死の努力をぶち壊しにするようなことをしないでほしい。

 ケースワーカーのみなさんには、生活保護制度が困窮した人々の道を明るく照らすよう、法に則りながらも柔軟な運用をしてほしいと願う。相手は人間なのだから、どうか。


小林美穂子(こばやしみほこ)1968年生まれ、『一般社団法人つくろい東京ファンド』のボランティア・スタッフ。路上での生活から支援を受けてアパート暮らしになった人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネイター。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで働き、通訳職、上海での学生生活を経てから生活困窮者支援の活動を始めた。『コロナ禍の東京を駆ける』(岩波書店/共著)を出版。