わずか1年2か月の、新婚生活の甘い思い出とふたつの小さな命を残し、過酷な戦場で散った─。そんな亡き夫にいま、恋文を書き続ける女性がいる。まるで傍らにいるかのように、語りかけるように何気ない出来事を、喜びを、そして感謝を綴る。
《流れる雲よ、心あらば私の思いを伝えておくれ─》
 
これは、戦争で最愛の夫と引き裂かれ、それでも力強く戦後を生き抜いた、ひとりの女性の物語─。〈人間ドキュメント・大櫛ツチヱさん 第2回〉

■戦地の夫に手紙を書く日々

 出征の日は、5日後と定められていた。別れを惜しむ間もなく、準備に追われた。

「さらしと赤い糸を買って、千人針もこしらえました。お腹に巻きつけていたら、弾が当たらんと信じていたので」

 小雪が降る中、勝彦さんをおぶり、道ゆく人にひと針ひと針縫って結んでもらった。

「みなさんお互いさまだからと、快く引き受けてくれて。寅年の人は年の数だけ縫えるのでありがたかったですね」

 2日がかりで仕上げると、祈る思いで夫に渡した。そして迎えた出征の日のことを、ツチヱさんは手紙でこう振り返っている。

《貴方!! 朝の連ドラで開戦時のことが流れていました。赤紙がきて、召集の覚悟を決めた貴方の顔が目に浮かびました。博多駅のプラットホームで貴方の入隊を見送った時、貴方は息子の手を握り、そして、私の手を握って、「この子と両親を頼むよ」の言葉を遺し、貴方は入隊しました》

「万歳! 万歳!」

 親族や近所の人々に交じり、威勢よく夫を見送った。涙は見せなかった。見せてはならない時代だった。

 翌月、広島で仁九郎さんと短い再会を果たした。

「このときも夫は“勝彦と両親を頼むよ”と、言い残しました」

 これが最後の別れになるとは、このときは知る由もない。仁九郎さんの出征後は、母子で、糸島の夫の実家に身を寄せた。

【写真】戦地から届いた仁九郎さんの手紙やハガキ。ときには自筆の絵ハガキも
【写真】戦地から届いた仁九郎さんの手紙やハガキ。ときには自筆の絵ハガキも

 夫が所属する部隊がわかってからは、毎日のように手紙を出した。

「夫からは10日に1度くらい、返事が来ました。書き出しは決まって“勝彦は元気か”。私の手紙が、“どすん”と音を立てるほどまとめて届くことを、喜んでくれました。とても絵の上手な人だったので、手紙に添えられた絵を見るのも楽しみでしたね」

 仁九郎さんの出征後に、第2子の妊娠がわかった。1943(昭和18)年9月、長女・洋子さんの誕生を手紙で報告すると、夫はたいそう喜んだ。

 しかし、次第に返事は途切れがちになっていった。戦況は悪化の一途をたどり、ようやく届いた手紙には、《毎日の敵機襲来にも応戦する武器もない! 武器を送ってくれ!》と、悲痛な叫びが書かれていた。

 夫の部隊は、台湾、フィリピンから、ニューギニアへ。そのころには、日本も連合軍の容赦ない攻撃にさらされていた。

「空襲警報が鳴り響くと、義父母が幼い子どもたちを抱いて防空壕に急ぎ、私と義妹はバケツに水を汲んで表に立ちました。焼夷弾が落ちたら、すぐに火を消すためです」

 すさまじい轟音とともに、無数の敵機が頭上を行き交った。直撃されれば命はない。恐怖で足がすくんだ。

「ようやく敵機が通り過ぎると、義妹と“落とされんで、よかった”と、胸をなでおろしました」

【写真】婚家の裏の防空壕前で。手前の義父母の間に座るのが勝彦さん、ツチヱさんは長女の洋子さんをひざにのせて
【写真】婚家の裏の防空壕前で。手前の義父母の間に座るのが勝彦さん、ツチヱさんは長女の洋子さんをひざにのせて

 命の保証がない日々が続いた。仁九郎さんからの手紙は完全に途絶えていた。それでも、ツチヱさんは戦地の夫に手紙を出し続けた。

「子どもたちや、家族の無事を伝えること、それが私の使命だと思っていたから。それに、手紙が私と夫をつなぐ、唯一の絆だったから」

 1945(昭和20)年8月15日、終戦が告げられた。敗戦国になったことに呆然としながらも、ツチヱさんは子どもたちを抱きしめ声を弾ませた。

「お父さんが帰ってくるのよ!」

■夫の戦死の知らせ。そして教師へ

 希望が打ち砕かれたのは、終戦から1年近くがたった、1946(昭和21)年7月のこと。

「役場の人から戦死の知らせが届きました。必ず帰ってくると信じて待っていたので、そのときは、もうね……」

 そこまで話すと、目頭を押さえた。

【写真】ときに涙ぐみながら、終戦当時のことを語ってくれた
【写真】ときに涙ぐみながら、終戦当時のことを語ってくれた

 手紙が途絶えた1944(昭和19)年秋、終戦の1年近く前に、仁九郎さんはすでに亡くなっていたという。

「ニューギニアのジャングルの中で、戦病死したと聞かされました」

 遺骨は戻らなかった。白木の箱に、出征のときに切っていった爪を入れて納骨した。

 2人の幼い子どもを抱え、これからどう生きていけばいいのか、途方に暮れた。そんなツチヱさんに、義父母は身の振り方を選ばせてくれた。

 里に帰って再婚するか、夫の弟と結婚するか、再婚せずに婚家に残るか─。

「あの時代は、有無を言わさず子どもを婚家に取られ、実家に帰される嫁が珍しくなかったんです。だから、感謝しています。選ばせてくれたことに」

 結局、再婚せずにそのまま残ることを決めた。「勝彦と両親を頼むよ」─、出征前に夫と交わした約束を守りたかったからだ。

 教師になったのは、終戦から5年後、30歳のとき。

「戦後の食糧難は、米や野菜を作って乗り切りましたが、自給自足の生活では、お金にならない。勝彦も小学校に上がる年齢を迎え、お金が必要でした。だから、“私、勤めましょう”と」

 勤務先は、地元、糸島の前原(まえばる)小学校。実父のすすめで取った教員免許が役立った。

「それからはもう、一生懸命に励みました」

 いまでもツチヱさんは、教師になって初めて送り出した卒業生の名前を、名簿順にそらで言える。「アイタケシ、イノウエミノル、イノウエマサヒロ……」、途中で勝彦さんが、「お母さん、もうそのへんで」と止めたが、1クラス60人もの生徒の名前を、それもフルネームで─。

 どれだけ情熱を傾けていたかがわかる。そして、ツチヱさんがどれだけ生徒に慕われていたか。

 前原小学校時代の教え子で、現在も親交がある、宗久子さん(73)の言葉が物語る。

【写真】前原小学校時代の卒業生たちと(ツチヱさんの自宅で)。後列右端が宗久子さん
【写真】前原小学校時代の卒業生たちと(ツチヱさんの自宅で)。後列右端が宗久子さん

「大櫛先生は、わが子のように私たちを守り育ててくださいました。いまでも記憶に残っているのは、“1日にひとつ、よいことをしましょう”という教え。ゴミを拾ったり、トイレ掃除をしたりして、日記に書いたものです」

 教室には花挿しが置かれ、毎日、かわるがわる生徒が花を一輪、持ってきたという。

「戦後の殺伐とした時代に、先生は思いやりと感謝の心を育てようとしてくださったんですね。同窓会を開くと、先生に会いに、東京からも生徒が駆けつけるほどです。それは、私たちにとって、先生が人生の師でもあるからです」

 教師として全力で生徒と向き合えたのは、「義父母のおかげ」と、ツチヱさんは言う。

「お義父さん、お義母さんが、勝彦や洋子の親がわりになってくれたから、私は仕事に専念できたんです」

 もとより、親のお株を取られたことで寂しい思いも。

「勝彦の家庭訪問で、担任の先生に“お姉さん”と間違われたりね」

 それでも、ツチヱさんから聞こえてくるのは、義父母への感謝の言葉ばかりだ。

「寒い夜、仕事から帰ると、お義母さんが私の着替えをこたつで温めておいてくれて。実の娘のように大事にしてもらいました。ほんと、実家におるようでね、幸せでした」

 定年まで勤め上げた。28年間の教師人生は、感謝の気持ちを持ち、感謝の気持ちを生徒に教える日々でもあった。

※以下、後編に続く(本記事は『週刊女性PRIME』用に3編に分けて再構成しています)
〈前編〉94歳の恋文が話題――初対面の結婚式で、夫に恋をしました
〈後編〉94歳の恋文が話題――結婚50年の節目の慰霊巡拝、最愛の娘の死

取材・文/中山み登り 撮影/佐々木みどり