わずか1年2か月の、新婚生活の甘い思い出とふたつの小さな命を残し、過酷な戦場で散った─。そんな亡き夫にいま、恋文を書き続ける女性がいる。まるで傍らにいるかのように、語りかけるように何気ない出来事を、喜びを、そして感謝を綴る。
《流れる雲よ、心あらば私の思いを伝えておくれ─》
 
これは、戦争で最愛の夫と引き裂かれ、それでも力強く戦後を生き抜いた、ひとりの女性の物語─。〈人間ドキュメント・大櫛ツチヱさん 第3回〉

■ようやく実現した慰霊巡拝の旅

 仁九郎さんの魂が眠る、南太平洋の島、ニューギニアの地を、ツチヱさんはこれまでに3度訪れている。

 最期の戦地、西部ニューギニアのマノクワリを実際に訪れることができたのは、戦後46年が過ぎた1991(平成3)年のこと。インドネシア政府による、遺族の慰霊巡拝が認可され、ようやく実現した。

 念願の地に足を踏み入れたツチヱさんは、戦没者の慰霊碑を前に、感無量で仁九郎さんに報告したという。

「あなた、子どもたちも立派に育ち、孫もできました。あなたの弟妹も元気ですよ。喜んでくださいね」

 くしくも、この年は、結婚50年の節目の年でもあった。

「生きていたら金婚式ですからね。一緒にお祝いしましょう、と夫に語りかけました」

 ツチヱさんの言葉は、仁九郎さんに届いたのではないだろうか。そう感じたのも、勝彦さんから不思議な体験談を聞いたからだ。

 勝彦さんがニューギニアを訪れたのは、偶然の出会いが始まりだった。

「ニューギニア戦線での数少ない生き残りの元兵士と話す機会があったんです。そのとき初めて記憶にもない父のことを知りたいと思って。この目で父の戦地を見ておかなければと動き出したんです」

 こうして2002(平成14)年、『西部ニューギニア慰霊団』の一員として参加。実際に戦地となったジャングルに降り立ったとき、勝彦さんは息をのんだという。

 目の前に広がる光景が、想像とかけ離れていたからだ。

「ジャングルというと、バナナや南国のフルーツがたわわに実るイメージですよね。でも、実際はまったく違った。密林の中、食べ物なんて何もない。蛇1匹いない。その中で、兵士たちは極限の飢餓状態に置かれていたんです」

 ニューギニア戦地は、「飢餓の戦地」と、たとえられる。敗戦色が濃くなったころ、日本軍の輸送船は、連合軍によってバタバタと沈められ、食料は届かなかった。軍の上層部は「現地調達!」と指令を出したが、密林に食べるものなど何もない。

 兵士は飲まず食わずで、骨と皮だけになった。衰弱した身体で、多くの兵士がマラリアにかかり、息絶えた。ニューギニア全島に上陸した日本兵は、約20万人。その中で、生還できたのは1割足らずだといわれている。

 勝彦さんが話す。

「私が偶然に会った帰還兵は、戦地でのことを語りたがりませんでした。口にできないほど壮絶な光景を見てきたからだと思います」

 この地で仁九郎さんがどういう亡くなり方をしたのかは、もう知る由もない。

 しかし、これだけは確かではないだろうか。命が尽きるとき、仁九郎さんは思い出したのではないか。ツチヱさんとの幸せに満ちた日々を。2階の出窓に腰かけて見た、美しい夕焼けを─。頬ずりした勝彦さんの柔らかいほっぺの感触を─。

 ニューギニアのジャングルに向かい、勝彦さんは大きな声で呼びかけた。

「お父さん! お父さん! 私の声が聞こえますか!」

 そのとき、勝彦さんは確かに耳にしたという。

「勝彦! お母さんを頼むよ」

 ジャングルの奥に眠る仁九郎さんの魂の声を。

 定年を迎えた勝彦さんが、糸島の実家に戻り、ツチヱさんと暮らすことを決めたのは、このときだった。