子育てで感じた、安全な食生活の大切さ
「私は24歳で結婚し、主婦になり、子育てに邁進(まいしん)していた時期がありました。息子を育てながら強く感じたのは、安全な食生活の大切さ。加盟店さんやお客様が問題を抱えている状態では安心は守れない。両者の間に立つ私たちは、常に双方の側に立って物事を考える必要があるんです」
主婦としての生活実感を大事にしながら中村さんはこのビジネスに携わっている。
フードデリバリー市場は、'19年に7000億円をはるかに超えるなど需要が急拡大。出前館の勢いもすさまじい。この1年で加盟店の数を1万以上も増やし、今年7月には全国3万店を突破した。
「ひとつのエリアで200店舗くらいの数になると、ラーメンやカレーからハンバーガー、エスニックまで、あらゆるジャンルがそろうんです。最近、特に盛り上がっているのがスイーツ。
タピオカやドーナツ、ケーキもあって“出前館に行けば何でも頼める”という状況になる。すごくワクワクしますよね。岡山も早くそうなるといいですし、近い将来には身の回りの世話や買い物など、かゆいところに手が届くサービスも提供できればいいと思っています」
また、配達員の安全や衛生面にも配慮を欠かさない。
「出前館はドライバーさんを直接雇用して、3時間の研修を受けてから外に出てもらっています。出社時の検温、バイクに消毒液を積んで配達することも必須。配送品質は他社との大きな違いですね」
注文した人がおいしい食べ物を笑顔で受け取ってくれる姿を想像しながら、中村さんはアグレッシブに奔走する。月2万円の売り上げで倒産寸前だった出前館の立て直しに奔走して、約20年。今では年商60億円超の業界トップ企業へと引き上げた。
そんな中村さんの「スーパーウーマン伝説」は、すでに幼少期から始まっていた。
儲けている人を見抜く観察眼
中村さんが生まれたのは、国じゅうが東京オリンピックに沸いた1964年。日本海に面した富山県高岡市の、地元でも有名な老舗材木店を営む両親の長女として誕生し、にぎやかな3姉妹の中で育った。教育方針は厳しく、幼いころから習い事漬けの日々を過ごす。
「商売人の家ということで、そろばんは週2回。習字やピアノなども、ひととおりやりました。門限は6時で友達とも遊びに行けない。早く家を出たいと思っていましたね」
ただ、彼女は単なる箱入り娘にはとどまらなかった。家に出入りする職人や問屋の人々、銀行員などさまざまな人物を観察し、「実務をしていないブローカー的な人が儲(もう)けているんだ」と、社会の構造をいち早く見抜いていた。帳簿をつける母親を横目で見て、中学生のころには自分でもつけられるようになっていたという。
それでも当時は、「夢は医者」で、商売人になる気持ちは一切なかった。その道にいちばん近い地元屈指の進学校・富山県立高岡高校へ進むと、そこで出会ったバレーボールに魅せられる。
きっかけを与えたのは、当時の恩師・大塚千代先生だ。