家出少女と同棲生活

出会った当初、曲を作る鮎川さんの横で悦子さんもよく歌っていた
出会った当初、曲を作る鮎川さんの横で悦子さんもよく歌っていた
『シーナ&ロケッツ』鮎川誠さん、妻シーナと出会った頃の写真など

 すっかり博多が気に入った悦子は、夏休みの間だけでもこの街に住もうと2人で部屋を探した。見つけたアパートは、貧乏なバンドマンばかりが集まって住んでいる、まるでバンド版『トキワ荘』。悦子にとって見るもの、聴くもの、すべてが珍しく新鮮に感じた。

 中でも当時2人が足繁く通っていたのが、九州でいちばん最初にできたロック喫茶『ぱわぁはうす』。当時、この店でアルバイトをしていた松本康さんは、今も鮎川が初めて店に来た日のことを覚えていた。

オーダーを取りに行くと、メニューも見んと“牛乳”と言うので、“ミルクですか?”と聞き返すと“牛乳でよか”とつぶやいて、ポケットからコッペパンを取り出してムシャムシャ食べてる。そんなマコちゃんの照れた顔が忘れられない。仲よくなり、新しいLPを買うとマコちゃんの家に行ってよく一緒に聴きました。僕が42年も輸入レコードショップをやり続けてこられたのも、マコちゃんたちとブルースやクラシック・ロックを聴き込んできたおかげです」

 現在、天神で輸入レコード店『ジュークレコード』のオーナーを務める松本さんの店は山下達郎をはじめ、全国のブルースファンが足を運ぶ知る人ぞ知る店になった。

 2人のアパートをよく訪ねたのは、浦田さんも同じだ。

「ギターを教えてもらうために、僕もしょっちゅうバイクに乗ってアパートに通いました。僕らはあのころから50年近く、お酒も飲まずに顔を合わせれば朝までセッション。お酒を飲むと今日が終わってしまう。そんなのもったいない。マコちゃんは今も昔も探究心の塊。永遠のロック少年です」

 そんな鮎川たちの音楽談議に目を輝かせていた悦子。

 毎日が楽しくて、とても家に帰る気にならず、

「心配しないで、楽しくて 自信満々で生きていますから」

 という手紙を両親に書いた。もちろん住所を伏せて。

 ところがある日、ノックの音でドアを開けると、眼の前に悦子の父が鬼の形相で立っていた。アパートの外で、

「一緒に帰ろう」

 と諭されたが、悦子は、

「いや!」

 と言って父をにらみ、頑として首を縦に振らなかった。

 悦子の父は、鮎川の顔も見ないで目をそらし無言の怒りをあらわにしていた。

 実は悦子は、このときまだ高校3年生。北九州市の若松で洋装店を営む両親の目を盗んでは店の売り上げを持ち出し、中学生のころからプチ家出を繰り返していた。高校生になるとロックフェスへも足繁く通った。

 鮎川との出会いも、高校3年生の夏の出来事だった。

「一緒に暮らし始めたときは、高校生とは思わんかった。大人っぽい雰囲気やから22、23歳かち思うとった」

 と鮎川は言う。

鮎川さんは、カッコいい服装の悦子さんを連れて歩くのが楽しかったという
鮎川さんは、カッコいい服装の悦子さんを連れて歩くのが楽しかったという

 今までのプチ家出とは違い、長すぎる家出に、若松の実家では占い師に悦子の居場所を占ってもらうなど大騒ぎになっていたのである。

 悦子の父があきらめて帰ると、すぐ母がやってきた。

「僕がフーテンなどではなく、九州では誰でも知っている名門・九州大学の学生だとわかって、お母さんの好感度も上がったち、悦子は言うとった」

 2人を許す気になったのか、母は殺風景な部屋を見渡すと、冷蔵庫や炊飯器といった電化製品からタンスなど生活道具のほとんどを買ってくれた。

 バンド活動が忙しくおろそかになっていた学業にも身を入れ、卒業するころには、悦子の父も、「ようやったねぇ。マコちゃんは最高学府を出とるけん」と自慢するようになっていた。

 出会いから44年。夫婦となり、波乱に満ちた生涯を歩んでいくことになる2人。悦子にバトンを渡したのは、女手ひとつで鮎川を育てた母・梅子だった。