息子ひと筋の母に愛されて

「母が入院したとき“魚が食べたい”と言い出して。甘じょうゆで煮た魚料理を悦子が作ってくれたので、母がすごく喜んでいたんですよ。あれはうれしかったなぁ」と2人の思い出を語る
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 日本を代表するギタリスト鮎川誠は1948年、福岡県久留米市に生まれた。父はマッカーサーとともに日本にやってきた進駐軍。久留米・筑後・大牟田地区を統括する司令官J.Dフレイジー。母は昔、有馬藩の料亭だった『萃香園』で働いていた。母・梅子が働いているところを父・フレイジーが見初め、やがて身籠り一子・誠を授かった。

 しかし父・フレイジーは鮎川が3歳のときに東京の基地に移り、やがてサンフランシスコ講和条約が締結されるとアメリカに帰っていった。

「一緒にアメリカに行こうと、父に懇願されていたようですが母は弟妹のことが気がかりで、首を縦に振りませんでした」

 父母の愛情はこまやかで父が転勤後も母はよく父のことを思い出しては愛しそうに話してくれた。カメラが趣味だった父が鮎川を撮りためたアルバムは今も大切な宝物だ。

「父とは帰国後も月に1度、ローマ字で文通していました。ボクが“切手を集めとる”と書くと、世界の珍しい切手をどっさり送ってくれました」

 父が帰国すると、母と息子は、戦前の師団長公舎で戦後、市長公舎となった高牟礼会館の住み込みの管理人となった。

「6畳ひと間でしたが、父に買ってもらったシンガーミシンで、母はボクの洋服をハンチングからチョッキまで、すべて縫ってくれました」

 その母と息子のもとに、軍から父の死を知らせる便りが届いたのは中学2年のとき。

 母・梅子は帰国してから父はいないものと覚悟していたのか、取り乱すこともなく気丈に振る舞っていた。

 ただ、父からの仕送りがなくなったため母は一大決心。博多の中洲でボート屋を始め、鮎川も放課後、電車で1時間かけて博多に行き、母を手伝った。

 息子ひと筋の母。母を思いやる息子。そんな親子2人が6畳ひと間で毎晩楽しみに聴いていたのがラジオだった。