引きこもる母。自分を責め続ける日々

 仮住まいのアパートに移ってからは、息をひそめるように暮らした。

「母は、あんな事件に巻き込まれて恥ずかしい。世間に顔向けができないと、引きこもってしまいました。私も、どん底でした」

 夫は半年間、忙しい仕事を休み、家族を支えた。

 息子も、先生と相談し、事件の遺族であることを公表しないまま、学校に通い続けた。

「夫のやさしさや、息子の健気さが、ありがたかった。でも当時の私は、その思いに応えるどころか、死ぬことすら考えていたほどです

母親の治子さんを「清貧な女性でした」と語る。事件後、悲しみに暮れる母親の姿に、入江さんは犯罪被害者遺族が悲しみを発信できる場づくりが必要だと痛感した
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 なぜ、「一緒に暮らそう」と、妹一家を誘ってしまったのか。

 なぜ、みきおさんが「両家が仲よく暮らすために、防音設備にしよう」と提案したとき、「そんなの水くさいよ」と断らなかったのか。防音でなければ、犯人の気配に気づき、助けられたかもしれないのに──。

 自分を責め続けた。

「何より、悔いたのは、なぜ、もっと早く、引っ越さなかったのか、ということです」

 事件現場の周囲が閑散としていたのは、公園用地のため、近隣の家がほとんど立ち退きをすませていたからだ。

 姉妹一家も、東京都に土地を売却し、入江さんにいたっては、新しい土地を購入していた。早い段階から、「一緒に引っ越そう」と、泰子さんに提案もしていた。

 しかし、泰子さんは引っ越しを躊躇した。

「立ち退きの猶予期間が3年あるので、しばらく、このまま生活したい」

 と。

 それは、母親として、子どもを思ってのことだった。

「礼くんには発達障害がありました。妹は、翌年の春、1年生になる礼くんを、にいなちゃんと同じ、地域の小学校に入学させたかったんです」

 礼くんの障害と向き合い、懸命に子育てする泰子さんを、間近で見てきた入江さんは、反対などできなかった。

 暗闇の中で、もがくような日々が続いた。一筋の光が見えたのは、1枚の絵と再会したことに始まる。