再起不能もありえた大ケガ

 '98年4月に強豪・九州女子(現、福岡大学附属若葉)高校へ進学。ソフトボールが'96年アトランタ五輪から正式種目となったのを受け、彼女への期待が高まり、2000年シドニー五輪有望選手という見方もされ始めた。

 そして高校2年の夏、台湾で行われた世界ジュニア選手権で優勝。五輪初出場が叶うと思った矢先、体育の授業での走り高跳びで落下。腰椎の横突起骨折という重傷を負ってしまう。一歩間違えば、下半身不随になりかねなかった大ケガで、入院はなんと88日にも及んだ。もちろんソフトボールはできず、ひたすらベッドに寝ている日々。もちろんシドニー五輪出場の夢も消えた。希望に満ちていたソフトボール人生に暗雲が立ち込めた。

柏原中学校時代には全国大会で優勝。エースピッチャーとして活躍した
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 そのとき再認識したのが「自分にはソフトしかない」という思いと、「大好きなソフトボールをもう1度やりたい」という気持ちが強く湧き上がり、奇跡的な回復を遂げていく。リハビリもつらかったに違いないが、愚痴ひとつ言わずに真摯に取り組んだ。

「“嫌なことや人の悪口を言葉にしてしまうと、ますます嫌な気持ちになるから言わない”と、由岐子は中学生のころからよく言っていました。もともと愚痴るような子ではなかったけど、苦しいときでも親の前で弱音を吐くことはなかったです」と、母・京都さんも娘の強靭なメンタリティーに驚かされた。

高校2年生のとき世界ジュニア選手権で優勝投手に。逸材として将来を期待された 写真提供/(公財)日本ソフトボール協会

 大ケガから復活を果たした上野選手は'01年に日本リーグトップの日立高崎('15年1月からビックカメラ高崎に)に入団。五輪への挑戦が本格的に始まった。

「18歳当時の上野は口数が多いほうではなかったですね。でも周りへの気配りは飛び抜けていました。当時、チームを率いていた宇津木妙子監督(ビックカメラ高崎シニアアドバイザー)が“ピッチャーは特別なんだから、あまり雑用や用事をさせないように”という方針を示していたのに上野はいつも先に動いて練習の準備や片づけはもちろん、食事会場では率先してお皿を並べたり、配膳を手伝ったりしていました。外野手だった自分はよく怒られましたね

 苦笑いしながらエピソードを明かすのは、ビックカメラ高崎の岩渕有美監督。上野選手の3つ年上の彼女は'13年に現役を引退するまでともにプレーし、苦楽を味わってきた。現在は指導者と選手という間柄に変わったが、最速121キロの剛速球を投げる有能なピッチャーに対して、敬意を払い続けている。

 ソフト界では時速110キロのスピードボールを投げられる選手は数えるほどしかいない。もちろん、日本では上野選手ひとりだけだ。

「自分は速いボールを投げられちゃった感じ(笑)。時速120キロを投げようとして投げているわけじゃないんです。いいボールを投げたいと努力する中で、だんだんスピードが上がってきました」と淡々と言うが、やはり天賦の才によるところが大きい。

「足の速さと同じで、スピードボールを投げるのも生まれ持った才能。上野も新人時代は細身だったけど、時速110キロは投げていたと思います。その後、筋力がつき、体幹も強くなり、174センチの長身をうまく使えるようになって、一段と速さが増した。あれだけのピッチャーはそうそう出てきません」と、岩渕監督。

 “100年にひとりの逸材”と評される彼女だが、最初から絶対的エースだったわけではない。日立高崎時代の'02年ごろまでは増淵まり子選手ら経験豊富な先輩がチームにいたし、日本代表にも高山樹里選手という主軸ピッチャーが君臨していた。若さゆえの波もあり'04年アテネ五輪では大黒柱になり切れなかった。