katuyama
 ‘07年、『右から来たものを左へ受け流すの歌』でブレイクしたムーディ勝山。

「交差点を渡っていたら“ムーディだ!”と気づかれたんです。そうしたら四方から人が集まってきて、僕を中心に渋滞が起こりました」

 部屋を模様替えしたときにできたというネタは、芸人の結婚式をきっかけにヒットした。

「余興で何度か披露するうちに話題になったんです。特に陣内智則さんが気に入ってくれて、番組で紹介されたことを機に仕事が増えました」

 月に1~2本だったテレビ出演が毎日になるなど状況は一変。東京での仕事も増え、移動中が寝る時間だった。

「大阪から東京に出てきて目黒のタワーマンションに住みました。コンビニのATMで毎回、最大限度額の20万円をおろしたり、芸能人として成功したなと思っていましたね」

 実際に『右から~』の着うたは240万ダウンロードを記録。その活躍をいちばん喜んだのは母だった。

「ひきこもりだった僕に芸人の道をすすめてくれたのが母なんです。売れていたころは実家に帰ると200枚くらいサイン色紙が用意してあって。’07 年に前川清さんと紅白に出場したときは“紅白出場歌手と書き添えて”と、リクエストされました(笑い)」

 しかし、その状態は長く続かず、’08 年になると陰りが。

「一発屋にも段階があって、年を越すと急に“去年の人感”が出るんですよね。そうすると地方の仕事が増えて、その半年後にはラジオが増える。そして最終的には営業ばかりに。だけど、この変化を自分ではなかなか受け入れられないんですよね。僕が認めることができたのは、有吉弘行さんに“お前は一発屋だよ”と言ってもらってからでした」

 ほかの先輩たちにも助けられたという。仕事がないことを笑ってくれたのだ。

「先輩たちに“マネジャーにスケジュールをよこせと言ったら白紙のFAXが届いた”とか“妻にウソをついて出勤したけど公園で鳩と話していた”とかしゃべったら、めっちゃウケたんですね。それで開き直って、テレビでも“売れてないエピソード”を話すことにしたんです」

 逆転の発想が奏功し、今や一発屋の間で“売れてない話”をネタにすることは定番化。彼のそんな浮き沈みにも驚きを見せなかったのは、素人時代から支えてくれた妻だそう。

「実は絶頂期に向こうの両親に挨拶に行って“今はまだ力量不足なので一人前になったら娘さんを迎えにきます”と大見得を切ったんです。だけど、その後に仕事が激減(苦笑)。あちらは結婚に好意的だったので’11 年に改めて“すみません、娘さんをください”と土下座しました(笑い)」

 ‘13 年には第1子も誕生し、大黒柱としての責任も増えた。現在は東京のFM番組のほか、4年目を迎えた宮城でのラジオ番組、今年4月からは香川と岡山で放送されるテレビ番組を抱える。最後に自らを競走馬にたとえてこう語った。

「東京で走っていた馬が、故障して休養後に地方で活躍する。それと同じ状態かと。第一線で走っていたときにいろんな経験をさせてもらいました。そこで覚えた小技もたくさんあって、ローカル番組で生きてくるわけです。地方馬として新たな力を身につけたら、また東京で走りたいですね。馬と違って人間は寿命が長いので、末永く頑張ります」