CMのタイアップも、当初は別のアーティストが起用される予定だったとか。

「でも現場の撮影チームがイメージしたものと違ったようで、次点の候補曲だった僕らの曲が起用されることに」

 曲がヒットしたことで、一気に多忙な日々を迎える。

「ピンク・レディーが忙しすぎて当時の記憶が無かったのか、解散後に会った際、『ザ・ベストテン』で何度も共演している久米宏さんに“はじめまして”と言ったエピソードが好きなんです(笑)。僕らも一気に忙しくなって、スタッフと衝突することとかも増えたけど、自分の中では彼女たちに近づくためにも、もっと頑張らなきゃなと、どこか冷静に見ている部分もありましたね」

 しかし、ブレイク翌年の2000年末、活動スタートから約2年で解散することに。

「ヒットしてからの1年間がとても充実した日々を過ごせたし、どこか生き急いでいた感じはします。解散と同時にNATSUは事務所を辞めたんですが、僕は拾ってくれた事務所に恩返しできれば……と残ることにしました」

TOKIOにも楽曲を提供

 解散後はエイベックス・アーティストアカデミーで講師を務めたり、作曲家としての活動を本格化させる。

「当時20代後半だったので、僕より年上の生徒も多かったですね。教えるという立場だと厳しいと思ったので、ともに学ぶというスタンスでやっていました。その日のヤフーニュースのトップで気になったものを選んで、ディスカッション。それをテーマに音楽を作るなら……という感じでやっていました」

 生徒の中にのちにハロー!プロジェクトの楽曲を制作する角田崇徳がいた縁で、ハロプロ所属のつばきファクトリーに『春恋歌』(2018年)を提供したことも。2002年発売のTOKIO『花唄』など、さまざまなアーティストに楽曲提供を行っている。

「『花唄』はセンチメンタル・バス時代にお世話になっていたディレクターがコンペ用の楽曲を集めていて、声をかけてくれたんです。当時のTOKIOはまだまだアイドル的バンドのイメージだったのですが、僕はバラエティー番組の『ガチンコ!』で見せる男臭い彼らが好きだったので、楽曲にもそういう部分を出せたらいいなと作りました。

 先日、国分太一くんがツイッターでこの曲の歌詞を引用してくれたのを見て、メンバーにも気に入ってもらえたのかな? とうれしかったですね」