宮城・気仙沼市の『すだ花や』のオーナー・小野寺和子さん(66)。

「1度は花屋をやめようと思った」

 気仙沼湾に近かった本店は跡形もなく津波に流された。津波は車やがれきを巻き込んで川を駆け上がり、高台にある現在の店舗は浸水1メートルの被害。花や鉢植えは海水に浸って全滅。泥まみれの店内に冷凍マグロが2匹転がっていた。

「亡くなった方が多すぎて、一般的な葬儀など営めなかった。遺体が見つかっても花一輪、手向けられないことがあった。遺族の気持ちを思うとつらかった」(小野寺さん)

 10日かけて店の泥を掻き出した。スタッフの鈴木美奈子さん(48)は「きっと再開する」と思っていた。小野寺さんの同級生の女性も言う。

「この花はありますか? と聞かれて“ない”というのがイヤな人。よく頑張りましたよ」

 '11年4月には営業を再開。白や黄色の菊、テッポウユリ、青紫色のアイリスなど落ち着いた色の仏花を求める客ばかりだった。同年5月の母の日。「白いカーネーションをください」と若い男性が来た。震災で母親を亡くしたという。

「8月のお盆のころには、親しかった友人や知人の消息がだいたいわかった。でも遺族が仮設住宅暮らしだと、押しかけられない。部屋が狭いから手向けられても一輪か小さい花でした」(小野寺さん)

 宮城・南三陸町の仮設商店街で営業する『花の店あん』の芳賀純子店長(56)は、生まれも育ちも南三陸。父親(当時83)は避難場所で津波に巻き込まれ、行方不明のままだ。

「店は全部流されました。営業を再開したのは'12年2月。もっと早くやりたかった。役に立てなかったという思いがある」(芳賀店長)

 若い故人の遺族や友人は、チューリップやガーベラ、スイートピーなどかわいい花を求める。こちらから余計なことはしゃべらない。奥さんを亡くした子連れの若い男性には、カスミソウをアレンジしてカラフルな花束をつくった。

 同じ南三陸の『サトー園芸店』佐藤典明店長(49)は店を流され、倉庫を改築して営業を再開した。忘れられない出来事がある。震災直後の小学校の卒業式。花も器も道具もない。被災しなかった隣の登米市の同業者が言った。

「なんでも好きなのを持っていっていいから」

 商売道具の花切りバサミやリボンまで。代金は「いいよ」と受け取らなかった。

「こういうのを絆って言うんだと思う。ハサミは今でも大切に保管しています」

 佐藤店長は営業再開前の'11年4月から約3か月間、2次避難所だった『南三陸ホテル観洋』で生活した。まとめ役の班長を務め、ホテルの周囲の花の手入れをした。

 同ホテルの伊藤俊・第一営業課長は「避難所運営に前向きに協力してくれた」と話す。

「花をいじっている場合か、と冷ややかな人もいたかもしれない。でも、世話をしなければ枯れる。復興支援に決まったかたちはない。花を見て勇気づけられる人もいます」

 どの店でも最初は白い仏花が出たが、やがてカラフルな花束を手向ける人が増えたという。自宅に花を飾るゆとりも。前出の小野寺さんは店の前でこう声をかける。

「見るだけでいいから花を見に来て。癒されるから」