安保関連法案の参院特別委の審議は、自衛隊が法案成立を前提に秘密裏に作成していた内部文書をめぐって紛糾。国会では「軍」や「シビリアンコントロール(文民統制)」などの怖いキーワードが飛び交う。防衛省の来年度予算要求は過去最高の5兆円を上回る見通し。第2次安倍政権発足後、防衛予算は年々増えている。

70年前、国民は戦争から解放された。肉親や友人ら大切な人を失った。なぜ、また戦争に怯えなくてはならないのか。私たちは戦争の怖さを体験者から学んだはずなのに……。あの夏、何があったのか、戦争体験者に聞いた。

◆京大卒の戦友は訓練に耐えきれず自殺「彼の母親は無言で遺骨を抱いて…」

ーー酒井文英さん(千葉・流山市 学徒出陣した元海軍パイロット)

 寒い日だった。

 千葉県流山市の曹洞宗「廣壽(こうじゅ)寺」の酒井文英(ぶんえい)住職(92)は、72年前の10月21日、雨の降りしきる東京・明治神宮外苑競技場で銃を担いで行進した。学徒出陣壮行会だ。

「緊張しました。観覧席の女学生が“バンザーイ、バンザーイ”ときれいな声で送り出してくれましてね。清らかな気持ちになりました。ただ、担いだ銃が軽くってね」

 当時20歳。駒澤大学の歴史学科で学んでいた。子どものころからガキ大将。6人きょうだいの長男で、両親から寺の跡取り息子として期待をかけられていた。壮行会の前の晩、僧侶の父親は「行ってこい。辛抱しろよ」とだけ告げた。母親はこわばった表情をして無口だった。

「戦局が悪化して、兵力を補うため文科系大学生も徴兵されたんです。担いだ銃は本物だったのか、木の銃だったのか、かなりインチキなものだったことは間違いない。なにしろ国防婦人会に竹ヤリを持たせて、米兵の火炎放射器と戦えというほどでしたから。これは生きて帰れないかもしれないな、と思いました」

 すでに兵器は不足しており、出陣学徒全員が本物の銃で行進したわけではなかった。

 成績は優秀だった。海軍飛行科に配属された酒井さんは、偵察機や戦闘機のパイロットとして呉航空隊(広島)、土浦航空隊(茨城)、松山航空隊(愛媛)、大津航空隊(滋賀)と渡り歩いた。任務は本土防衛。7つボタンの白い制服は、女学生の憧れの的だった。

「本土上空で出くわすのはたいがいB29でした。モールス信号で敵機襲来を“ツツーカカー”と知らせるんですが、地上からの高射砲が命中したところは1度も見たことがない。偵察機は3機編隊なので、単独飛行は心細くってね。機体の後ろに敵機に回られないよう気をつけました。撃たれちゃたいへんですから。向こうの戦闘機は速いんです」

 訓練は厳しかった。午前5時起床。毎日10キロ走り、ひじで地べたを這(は)い続ける匍匐(ほふく)前進の練習を続ける。闘争心をあおる騎馬戦も。理不尽なことで罰を受けた。

「気合を入れてやる」

 上官の鉄拳制裁は日常茶飯事だった。仲間のひとりは60発ぶん殴られたこともあるという。互いに励まし合いながら、何度も夜行列車に乗って逃げようかと考えた。

【写真】松山航空隊にいたころのりりしい制服姿
【写真】松山航空隊にいたころのりりしい制服姿

 松山航空隊にいたころ、忘れられない事件が起きた。

「仲間のひとりが船のフックにひもをかけて首つり自殺したんです。訓練に耐えきれなくなったんだと思う。京大卒の優秀な男でしたが、人付き合いが苦手でちょっと孤立しているところがあった。“つらい”とグチをこぼすこともありませんでしたから」

 彼の自殺を報告したときの上官の言い方は、いま思い出しても腹が立つという。

「上官は“おまえたちの死亡通知は3銭(切手代)ですむんだ”と言う。バカにしていると思いました。当時そばが1杯7銭です。そんな言い方がありますか」

 数日後、彼の母親が遺骨を引き取りにやって来た。

「軍は冷たい。軍隊葬もしなかったし、上官からお悔やみの言葉もない。お骨の入った箱を“はい”と母親に渡しただけ。息子の遺骨を抱いた母親は、何も言わず黙って帰っていきました。付き添う人もいませんでした。どんなにか泣き崩れたかったろうに。その後ろ姿がじつに寂しくて、今でも思い出すと胸が締めつけられます」

 ほどなく終戦を迎え、酒井さんは無事に寺に帰ることができた。出迎えた母親はただただ喜んだという。

 最後に、気になっていたことを聞いた。仏の道から戦争に行くことにためらいはありませんでしたか─。

「なかったというとウソになりますね。1度も交戦せず終戦を迎えられたことに感謝しています。そもそも、名誉の戦死なんて思えなかったからね。戦後70年、今年ほどあの戦争のことが注目されている年はないと思います。戦争は悲惨なものです」

 そう言って目を閉じた。