20160524_sengoku_2

 戦国時代きっての戦略家・真田信繁(幸村)のドラマチックな生涯を描くNHKの大河ドラマ『真田丸』。高視聴率をたたき出しているこの話題作をきっかけに、戦国時代に改めて興味をもったという人も多いのでは。

 歴史的には謎や不明なことも多い戦国武将の妻たちだが、夫の立身出世の陰に、妻たちの内助の功があったことは言うまでもない。ではいったい、真田一族の妻たちはどんな女性だったのだろうか。

 信州の小豪族にすぎなかった真田一族が、その名を全国に轟かせたのは、類いまれな戦略家であったことは言うまでもないが、幸隆、昌幸、信繁と真田三代を支えた妻たちの内助の功も見逃せない。

 例えば河原殿は、流浪の身の幸隆を助けて所領回復に尽くした。山手殿のおかげで石田三成と縁を結んだ昌幸は、豊臣政権でも重きをなした。大谷吉継の娘、竹林院を正妻とした信繁が九度山の幽閉生活に耐えられたのは、妻の支えがあったからなのだ。

・真田幸隆の妻「河原殿」

 真田幸隆の妻・河原殿は、東信濃の名門・海野一族の出身、あるいは真田一族の家臣であった河原隆正の息女(妹)であるとされている。

 幸隆が1541年の「海野平の合戦」に敗れ、上州(群馬県)をさまよっていたころから夫に連れ添った糟糠の妻である。昌幸をはじめ5人の男子、2人の女子を産み、真田一族の「中興の祖」と言われる幸隆を盛り立てた。

 幸隆が「砥石城攻略」で再び旧領を取り戻したあとは、上田城に住み、幸隆を支えた。幸隆亡き後は、息子の昌幸を盛り立て上田城で天寿を全うしたという。大河ドラマ『真田丸』のファンには、信長亡き後、滝川一益の人質となって苦労する様子が印象に残っているのではないだろうか。

・真田昌幸の妻「山手殿」

 真田昌幸の妻は、公家のひとりで大納言の菊亭晴季の娘など、出身には諸説ある。大河ドラマ『真田丸』の中では、雅びな公家の娘ゆえ、昌幸が扱いづらそうにしているシーンが笑いを誘ったが、実のところは、秀吉の重臣だった宇田頼忠の娘説が有力である。

 というのも、同じく秀吉の重臣・石田三成と昌幸の妻が姉妹であることが、三成から昌幸に送られた手紙にも書き残されているからだ。家康に対する不信感とともに、妻同士が姉妹の絆で結ばれていることが、「関ヶ原の合戦」で昌幸・信繁親子が西軍に味方した理由ではなかったかと考えられている。

 しかし、そこは戦略家の昌幸、長男の信幸の妻には、徳川四天王の1人、本多忠勝の娘・小松姫を迎えた。関ヶ原でどちらが勝っても、真田家の血筋を絶やさないという狙いだったのかもしれない。

・真田信繁の妻「竹林院」

 真田信繁は、堀田作兵衛の妹、高梨内記の娘、大谷吉継の娘、豊臣秀次の娘という4人の妻を持ち、4男9女の子宝に恵まれた。この中で信繁の正室だったのが、大谷吉継の娘。没後に竹林院と呼ばれている姫である。

 「関ヶ原の戦い」で九度山に流されたときには、信繁とともに九度山に赴き、2男2女をもうけたと言われる。武士の娘らしく、大阪の陣で信繁とともに大阪城に向かう長男・大助に、「自分たちのことは心配せず、父と生死をともにするように」と送り出したという。

 「大坂夏の陣」で父とともに戦っていた大助は活躍するも、父の厳命により、大阪城に戻り、秀頼自害のとき、13歳の若さで運命をともにしたという。竹林院は信繁亡きあと、徳川家康の許しを得て、亡くなるまで京都で娘夫婦と暮らしたとされる。

イラスト/高木一夫

参考資料/『戦国武将ものしり事典』(奈良本辰也監修/主婦と生活社)、『本能寺の変四二七年目の真実』(明智憲三郎著/プレジデント社)、『秀頼脱出』(前川和彦著/国書刊行会)、『家康は関ヶ原で死んでいた』(島右近著/竹書房新書)