悲劇の象徴だけで残ってしまうのも嫌だった

 震災当時、石巻市の大川中2年だった佐藤そのみさん(20)は高校を卒業後、日本大学に進学。4月で3年生になる。大川小の6年生だった妹のみずほちゃん(当時12)は、津波にのまれ、亡くなった。

 なぜ、大川小の子どもたちは避難できなかったのか。自宅では、毎晩のように遺族たちが集まって、避難の検証や、話し合いをする日々だった。

 あわただしい中、受験期を迎えていたが、ボランティアの人たちとの交流で落ち着きを取り戻す。

「ひとりひとりの写真を撮りました。帰ってしまっても忘れたくなかったので」

大川小の校舎を残したいと訴えていた佐藤さん(’14年当時、仙台市内)

 2年を過ぎたころ、被災した校舎を残したいと思い始めた。同じ考えを持った後輩たちと意思を表明。保存に反対の声もあったが、地域の復興協議会でも意見を発表。’15年3月、仙台市で開かれた「国連防災世界会議」でもプレゼンテーションをした。保存の声は高まっていき、思いが届いたのか’16年3月、石巻市は校舎保存を決めた。

「あのころは保存問題ばかり考えていました。今よりも大川のことを知っていました。ただ、母校なので悲劇の象徴だけで残ってしまうのも嫌だった」

 そんな思いもあり、校舎保存の意見を発表する際には、震災前に撮影した大川小と周辺の写真も使った。思い出の場所だ。

 昨年8月、被爆地・広島を初めて訪問した。原爆ドームの保存やその後の活動について話が聞けた。

「校舎は残せましたが、どう活動していけばいいのかはまだわかりません」

 ふるさとを伝え残すため映画を作りたい、と佐藤さん。現在は自主制作で取り組んでいる。

「妹が喜ぶことがしたい。震災には直接触れず、身近な死を描きたい。意識的に直後に書いていた日記を見て思い出す。ただ、納得がいかず、書いた脚本4本ともボツにしました」

 映画だからこそ伝わる震災やふるさとがある。今、挑戦中だ。