犠牲の上に成り立つ基地と日米安保

 基地内の労働環境が改善される一方、沖縄では、嘉手納基地の爆撃機B52の墜落事故、核や化学兵器保有問題をはじめ、あらゆる事件、事故を受けて基地反対運動が本格化した。

 ’70年の沖縄復帰闘争の先頭には全軍労の旗があった。瀬長さんも「地域の人の犠牲の上に生きていることを忘れてはいけない。いずれ基地をなくさなくては沖縄のためにならない」と考えていた。

 ベトナム戦争に反対し、タグボートを送ることに抵抗した基地労働者もいた。

「あの時代は、米軍とケンカも辞さない命がけの闘争をしていましたね」

 ベトナム戦争の終結前後には、沖縄全体で1万8000人の基地労働者が解雇。全軍労は「基地労働者を解雇するならば、土地を返せ」という方針を立てた。

「そのとき、解雇された人々を救ったのは県民です。市町村の役場や民間企業が雇用して助けてくれた」

 ’78年に全軍労は共闘する本土の『全駐留軍労働組合』(全駐労)と組織統一。’95年、米兵少女暴行事件で県民の反基地感情が一気に爆発し、抗議の県民総決起大会には県内外から8万5000人が結集した。

「日米安保のせい。無念だった。全駐労も基地撤去を表明した」

 ’96年、『沖縄に関する特別行動委員会』(SACO)で、普天間基地をはじめ11の施設、区域の返還が発表された。どう返還させ、労働者を救済するか。全駐労と県は雇用対策委員会を作り、基地労働者ひとりひとりの救済シミュレーションを作って返還に備えた。基地が減るのに伴い、労働者の採用は当然、絞らなくてはならない。だが、「安保遵守・雇用拡大」を唱える『沖縄駐留軍労働組合』は「1万人、雇用を増やせ」と主張、大論争になった。

「理想で飯は食えないが捨てたら何にもならない。県民に反することはするな、人間の心を忘れるな、と」

 そう当時を振り返る。

 沖縄県の本土復帰から45年を迎えたが、「人権の回復」はまだ実現できていない。瀬長さんは辺野古新基地建設に反対している。

「オスプレイが100機も常駐し、米国内でできない訓練を沖縄でする。観光が右肩上がりで発展しているが、危険な土地に人は来ない。国は“沖縄を守るため”と言うが、県民は米軍に日常的に生活を脅かされ続けているんです」

 その一方で、「昔の話は面倒くさい」という言葉を聞くようにもなった。

「今は権利も保障されていて、考えずにすむのかもしれないけど、私たちは尊厳を勝ち取る必要があった。何もしなければ、例えば共謀罪や改憲も、気がついたころには手遅れになる。歴史を忘れてはいけない」

現実を憲法に近づける努力を

 平和を求め続けた沖縄。そこから見た憲法は、どのように映るのか。

「東京で30年育ちましたが、その平穏な生活は、基地負担のうえに成り立ってきたことを沖縄であらためて感じています」

「沖縄の地元紙は本土とは姿勢が違う」と小口弁護士。県民の支持も高い

 そう話すのは小口幸人弁護士(39)だ。昨年、沖縄県南部に事務所を構えた。

「沖縄の反対運動がなぜ盛んか、本土では理解されないかもしれないが、沖縄には日本とアメリカに虐げられた歴史と、基地のない島にしたいという世代を超えた願いがある。辺野古に作る基地の耐用年数は200年。子や孫に基地を残せないという思いがあるんです」

 沖縄にいると、憲法が実態と離れている部分を肌で感じる、と小口弁護士。

「沖縄は、現実(基地)と憲法9条の矛盾を押しつけられ、それでもなお、子や孫に託したい希望を憲法9条の理念に見ている。

 安易に憲法を現実に合わせるのではなく、沖縄の先人たちのように、今の国民も、現実を憲法に近づける努力を続けるべきだと思います」

取材・文/吉田千亜と本誌「戦争」取材班