事件の日、実行犯たちは、先を尖らせた傘とサリンの袋を持ち、それぞれ地下鉄に乗り込んだ。一瞬、良心の呵責(かしゃく)を覚える者もいたが、オウムの論理に従って犯行に及んだのだ。

 廣瀬は、車内でサリンの入った袋を取り出そうとしたとき、包んでいた新聞紙が音をたてて、前に立っていた女子中学生に振り向かれそうになった。思わず手を止めて、電車が駅に到着すると耐えられずに降車したが、「これは救済なんだ」と言い聞かせて、後方の車両に移って乗りなおす。そして、サリンの入った袋を床に落とし、傘の先で突き刺したのである。

 犯行を終えた実行犯たちは、麻原彰晃の指示によって「グルとシヴァ神とすべての真理勝者に祝福されポアされてよかったね」と一万回唱えた。ちなみに、オウム真理教では、「ポア」は殺人を意味する言葉である。無差別殺人の実行犯に、良心の呵責を起こさせない洗脳を施したのだ。

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 洗脳された人たちの犯罪は、自供が得られないので解明が難しい。地下鉄サリン事件も、最初は実行犯の特定すらできなかったが、林郁夫が自供を始めたことで捜査が動き出す。

 林郁夫は、

「乗客の安全や電車の正常運行の確保という強い使命感から、文字通り身を挺して殉じた地下鉄職員の崇高な行動と、本来医師として人の生命や健康を守るべき使命を与えられているはずの自分が引き起こしたおぞましい無差別殺人行為を比べ、あまりの落差の大きさに雷を受けたような強い衝撃を受け、麻原のまやかしに気付き、自分のとった行動が誤っていたと確信し」、

 事件について語ることを決意したという。

 殉職した営団地下鉄の職員の姿が、事件の突破口となったのだ。林郁夫の自供が始まりとなり、麻原を見限った弟子たちが次々に証言を始めた。追い詰められた麻原は、コミュニケーションが取れない状態に陥り、ついに自ら事件について語ることはなかった。

 現在、オウム真理教の裁判は終結して、次の焦点は死刑執行に移っている。すでに「オウム真理教」を名乗る宗教団体は消滅し、地下鉄サリン事件の記憶も薄れつつある。

 しかし、オウム真理教の後継団体は存続しており、今でも麻原を「開祖」と位置づける団体があるという。オウムへの監視は怠れない。


文)佐藤充(さとう・みつる):大手鉄道会社の元社員。現在は、ビジネスマンとして鉄道を利用する立場である。鉄道ライターとして幅広く活動しており、著書に『鉄道業界のウラ話』『鉄道の裏面史』がある。また、自身のサイト『鉄道業界の舞台裏』も運営している。