スポーツ団体が、元選手など身内だけによって構成される、いわゆる体育会系の運営ではなくなったことも影響している。プロの経営者の目が入ることで、選手たちにも大きなチャンスになっているという。

「育成や宣伝を組織的に、効率的に行うノウハウがJリーグの運営の中ででき始めてきて、ほかの競技にも波及し始めています。最近ではバスケットのBリーグが成功した例といえるのではないでしょうか。

 昔ながらの先輩・後輩といった関係や、体育会の仲間の中だけでやっている競技会ではなく、もっと開かれた形で運営をしていけば、選手たちの意識も変わってくるでしょう。“井の中の蛙”ではなく、それこそ“世界”を見据えて挑戦できる環境にもなると思います」(工藤さん)

 スポーツ界の仕組みが変わり始めた、平成という時代。その“現場”にいた人の、今だから話せる証言を聞いていこう。

オリンピック名場面、プレーバック

 平成に開催されたオリンピック・パラリンピックは、夏季7回、冬季8回の計15回。日本の総メダル数は、実に夏季195個(パラ227個)、冬季51個(パラ88個)! メダルの有無を問わず、そこにはさまざまなドラマが−−。

 平成最初に行われた夏季バルセロナ五輪では、岩崎恭子(当時14)が200メートル平泳ぎで金メダルを獲得し、「今まで生きてきた中で、いちばん幸せです」のひと言が大流行。

 平成6年に開催された冬季リレハンメル五輪は、それまで夏冬同じ年に開催していた五輪を隔年開催にするために、前回の冬季アルベールビル五輪からわずか2年後に開かれたことも話題に。荻原健司選手を筆頭としたノルディック複合団体が金メダルを獲得するなど、日本のノルディック複合は黄金時代を迎えた。

 続く夏季アトランタ五輪では、田村亮子選手が決勝で敗れ、まさかの2大会連続の銀。男子サッカーでは、大本命のブラジルを破る“マイアミの奇跡”を起こすなど、五輪でもサッカー人気は不動のものに。

 2年後の冬季長野五輪は、何といっても男子ラージヒル団体の金メダルに尽きる。前大会で銀メダルに終わる原因を作ってしまった原田雅彦選手が、汚名返上の大ジャンプ。「立て、立て、立ってくれ!」の実況が忘れられない。

「用意していた言葉ではなく、心の底から出た言葉でした」

 とは、多くの平成五輪で実況、キャスターを務めてきた前出・工藤アナ。その後の「船木ぃ~」と見守る原田選手の姿を含め、平成スポーツ史の名場面だ。ちなみに、今をときめくカーリングも長野で正式種目に。

 平成12年の夏季シドニー五輪では、高橋尚子選手が日本の女子陸上競技として初の金メダルを獲得。なんと女子マラソン中継の最高視聴率は59・5%を記録。