韓国にのめり込んでいった80年代

 短期大学演劇科に進むが、卒業後はOLに。1年後たまたま受けたドラマのオーディションで5000人の中から最終選考の12人に残った。主役の座は逃したものの、プロデューサーに「やってみる?」と言われて時代劇で女優デビューする。

 女優・黒田福美にとってのターニングポイントは'85年、伊丹十三監督の『タンポポ』への出演だった。役所広司を相手に「食」とエロスを感じさせる大胆な演技を披露した。

「たった4シーンだけの出演なんだけど、おそらく玄人受けするシーンだったからなんでしょうね。この出演からいきなり“食っていける女優”になりました(笑)」

 黒田が韓国に目を向けるようになったのは、'80年代。韓流もK─POPもない、隣国なのに文化もグルメも一切入ってこなかった時代だった。

「私たちのころは、日教組が強くて、社会科の先生に“日本は韓国に悪いことをした”と習うわけです。すごく贖罪意識を持っていた。一方で政治犯が拷問を受けるなど、剣呑なイメージもありました」

'88年、韓国報道でキムチ作りを取材する黒田
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 そんなとき、ロス五輪のアジア選手権でバレーボール韓国代表のカン・マンス選手に黒田は魅了される。

「わあ、こんなすごい人がいたんだ。隣の国ってあったんだ、と実感した。そこから私の人生は変わるんですね」

 韓国に関する本を読み漁り、NHKの『ハングル講座』で7、8か月みっちり勉強した。

 初めて韓国を訪れたのは'84年のことだ。

「反日感情から怖い目にあうかと思っていましたが、実際に行ってみたら全然違ってた。韓国人はユーモアにあふれ、温かくておせっかいで。すぐに抱きしめてくれたりする。これがホントの韓国人なんだ、“みんなもっと触れたほうがいいよ”と思った」

 '88年、その経験を綴った旅のノンフィクション『ソウルマイハート』が出版され、時代は黒田とシンクロし始める。

「'86年あたりから、'88年のソウル五輪に向けてタブー視されていた韓国報道が解禁ムードになりました。それまで韓国報道といえば出てくるのは評論家や大学教授で男性ばかり。そんななか、女優でありながら韓国語を話し、ネタも持っている私の存在は新鮮で便利だったのかもしれません」

 黒田は女優業を休んで韓国報道に専念するようになる。

「事務所はあきれました。“ああ、黒田は終わった”って(笑)。俳優業に専念してほしかったのだと思います。だけど、私はソウル五輪を機に思う存分、韓国報道に取り組みたかった」

 彼女は手書きの企画書を作り、コンビニでコピーしては各局のプロデューサーに自分でPRして回った。

 そのかいあって、フジテレビが立ち上げた新番組で『黒田福美の韓国ロード』と銘打ってオリンピックに向けた「韓国の今」をレポートしていくことが決まった。