絵は生活の一部だった

 矢部が東京・東村山市で産声をあげたのは、'77年。のどかな風景の中に立つ六軒長屋の都営住宅に、両親と6つ上の姉の4人で暮らしていた。

 父は絵本作家のやべみつのり氏。庭に建てたプレハブ小屋が父の仕事部屋だった。

育児絵日記をつけていたと語るやべみつのり氏 撮影/森田晃博
【写真】父である絵本作家のやべみつのりさん、高校生時代の入江慎也と

「父はずっと仕事場にいるので、隣で僕も描いたり、工作を一緒にやったり。そんな父の姿をずっと見ていたので、“お父さんは好きなことをやっていていいな”と思っていましたね」

 幼い日の矢部にとって、絵は生活の一部。子どもの感性を大切にするみつのりさんは、「太郎の絵、面白いなぁ」と息子の絵を褒め続けたという。

 みつのりさんは絵本や紙芝居の制作を生業にしていたが生活は楽ではなく、母が介護職のパートに出て家計を支えた。僕の家は裕福じゃない。矢部は子どもながらにそう感じとっていたという。

「でも、不幸だとは思いませんでした。収入よりもやりたいことを重視している父の姿を見ていましたから。お金がなくても生きていけると父の背中が教えてくれたんでしょうね。ただ、テレビゲームをおねだりしたら、父がダンボールでゲーム機を手作りしてくれたんですが、そのときには“これじゃないんだけどなぁ”と切なくなりました(笑)」

 忙しい母に代わって育児を主に担当したのは父だった。父への憧れからだろうか。矢部は、保育園の卒園文集に《ぼくはえかきになりたい》と書き残している。みつのりさんが笑う。

「でも、その横に描いてある絵はおっぱいやお尻ばかり(笑)。このころの太郎は、ひょうきんで、人を笑わせるのが好きだったんですよ」

 みつのりさんは、息子の数々の“作品”を今も大事に保管している。その中のひとつが小学生時代の矢部が書いていた『たろうしんぶん』。“お姉ちゃん高校に合格”“おばあちゃんの川柳がテレビで紹介された”など、イラスト付きで家庭内のニュースを報じたもので、投稿欄やクイズを設けるなど読者を意識した作りに思わず引き込まれる。

『たろうしんぶん』。高校に合格したお姉ちゃんの様子をイラストかするなど遊び心満載

「勉強しろと言ったことは1度もありません。僕が言っていたのはただひとつ、“好きなことを見つけてほしい”。それだけです」

 おしゃべりだった太郎少年が、家でほとんど話さなくなってしまったのは、中学校に入ったころだった。

「仲がよかった友達がみんなヤンキーになっちゃって。だからといって、自分もヤンキーになるのはちょっと違うなぁと思っているうちに、友達があまりいなくなっちゃったんです」

 親しい友人ができず、教室に居場所がなかったという矢部。彼自身の記憶にはさほど深く刻まれていないようだが、みつのりさんは、このころ起きたある“事件”が忘れられないと話す。

「近所の同級生に“太郎が先生から体罰を受けた”と聞いたんです。でも太郎はそんなことひと言もいわなかった。学校側と話し合って問題が決着したころ、太郎が自由課題で描いていたポスターを見せに来たんです。“お父さん、これ学校に持って行っていい?”と」

 描かれていたのは、昇りゆく太陽と「さようなら体罰」の文字。

「太郎は多くを語らなかったけれど、作品を見れば気持ちはわかる。“自分の本当の思いをぶつけることこそが表現。もちろん持って行きなさい”と答えました。このころの太郎は、南方熊楠や柳田國男、つげ義春など中学生には難しいのではないかと思うような本をよく読んでいました。探求心旺盛で、大人びていたのかもしれません」