「協調性がない」「負けず嫌い」な少女時代

 永里3きょうだいの2番目・優季が生まれたのは、昭和の終盤である1987年。2つ上の源気、1学年下の亜紗乃とともに、にぎやかな環境で育った。幼少期からそろばんやピアノなどの習い事に通っていたが、いちばん熱中したのがサッカー。兄の影響で小学1年から地元の林サッカークラブに入り、本格的に取り組み始めた。

小1のとき、兄・源気の影響で始めたサッカーに魅せられ、夢を追い続けた永里(写真右)
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「父が“ひとつのことを極めてトップレベルになってほしい”という考えだったんで、とにかく上を目指すしかなかったですね。母はかばってくれましたけど、ホントにやめてしまったら家から追い出されそうな雰囲気もあったんで」

 と、彼女は苦笑する。眼前に立ちはだかる厳格な父親。盾になってくれたのは、妹思いの兄だった。

「“そんなんだったらやめちまえ”みたいな理不尽なことを父親が言うんで、“ちょっと言いすぎでしょ”と口を出したことが何度かありました。孫に当たる僕の子どもにも同じように厳しく接しようとするんで“いいおじいちゃんになってよ”と、口を酸っぱくして言ったくらいです」

 と、源気は冗談まじりに話す。そんな厳しい愛情を通して「何事も自分で考えて決断し、筋の通った生き方をする」という哲学は3きょうだいに刻み込まれた。

 父の教えのもと、貪欲にボールを蹴った永里もグングン成長。地元女子チームの『FC厚木レディース』を経て、中学から名門クラブ『日テレ・メニーナ』へと進む。同クラブはJリーグ『東京ヴェルディ』(東京V)の女子チームである『日テレ・ベレーザ』の下部組織。東京・稲城市の練習場に片道1時間半かけて通うことになった。

「中学が終わったら母が車で迎えに来てくれて、移動中にご飯を食べ、着替えて、最寄り駅まで送ってもらって、電車を乗り継いで練習場に行く形でした。1学年下の妹も翌年からメニーナに入ってきたので、一緒に行くようになりました」

 12歳から超多忙な生活を送ることになったが、日本女子サッカー界最高峰チームでの毎日は刺激的だった。1つ上には'11年女子W杯優勝メンバーの岩清水梓がいたし、同じグラウンドで練習していたベレーザには、澤穂希、大野忍といった偉大な先輩がズラリと並んでいたからだ。

 逸材の指導に当たったのは、寺谷真弓監督(現・東京Vアカデミーダイレクター)。

「優季は最初に見た小6のころから165センチくらいあって、頭ひとつ抜けた存在感を誇っていました。中1から試合に出て、中3でU─18(18歳以下)全日本選手権MVPを獲得するなど活躍していました。ただ、常に年上の選手とプレーすることが多かった分、自分のことを考えるだけで精いっぱいだったんでしょうね。“もう少し周りのことを考えて行動し、チーム一丸となってやってほしい”と思うところはありました」

 そんなある日、永里は寺谷監督から衝撃的なひと言を突きつけられる。

「おまえには“協調性”がないんだよ」

 本人は当時の胸中をこう述懐する。

「思春期真っ盛りの中3だったので戸惑ったし、“協調性って何だろう”って真剣に考えました。私はたぶん、昔から人と同じことをやるのが苦手だったのかな。“人との違いを見せることで上に行ける”という自負もあって、少し尖った行動をしていた気がします」

 没個性化と言われる昨今、彼女のように中学生のころから「自分らしくありたい」と考え、行動できる人間というのは非常に頼もしい。けれども、サッカーは集団競技。しかも20年前の日本では「強すぎる個性はいかがなものか」「もっと和を大事にすべき」という意識が根強く、永里のようなタイプは周囲から浮きがちだった。そんな実情を踏まえ、寺谷監督は警告を発したのかもしれない。

 こうした壁にぶつかったうえ、中学卒業直前の'03年1月に右ひざ前十字靱帯を断裂。実は中2の春にも左ひざ前十字靱帯損傷の重傷を負って長期離脱していただけに、本人には大きすぎるショックだった。それでも幸いにしてベレーザ昇格は決定。地元の進学校である厚木東高校にも合格し、好きな勉強をしながらリハビリに専念できた。

 ベレーザ時代の永里を指導した松田岳夫監督(現『マイナビベガルタ仙台レディース』監督)は「彼女は根っからの負けず嫌い」と話す。

「ベレーザに上がってきたころはケガを治しながらプレー感覚を取り戻すことに集中していました。もともと人見知りで寡黙な子だけど、泣き虫な一面もありましたよ。試合に負けると本当にすぐ泣く(笑)。そうやって感情をストレートに出すのがいいところだと僕は感じていました