震災後、通い詰めた秘密の場所

 今年3月11日、普段どおり生島はマイクに向かっていた。

「3月11日がきました、東日本大震災の発生から今日で10年ということになりますね。(3月)11日現在、お亡くなりになった人の数は、震災関連死を含めて1万9747人、昨年と比べ18人増えたということですが2万人ですね。行方不明の方ですが、この1年で3人減って2556人。教訓を忘れずに、防災、減災意識を持って1日1日臨んでいかないといけないかなと思います」

 3・11の週には、被災地で未来を向く若者たちにスポットを当てた特集を連日放送したり、生島と同じ宮城県出身(女川)の俳優で歌手の中村雅俊(70)をゲストに呼び、震災を風化させない思いを発信した。

 '11年3月11日(金)。宮城県仙台市のホテルで講演している真っ最中に、生島は巨大な揺れに見舞われる。

 東北新幹線は止まり、仙台空港も津波にのみ込まれた。

実家の「伊勢浜食堂」前にて(左から友人、26歳の生島、祖母&三男、次男)
実家の「伊勢浜食堂」前にて(左から友人、26歳の生島、祖母&三男、次男)
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 翌日、東京で仕事を控えていた生島は、マネージャーとタクシー5台を乗り継ぎ、一般道で約15時間かけ帰京。

 3台目のタクシーに設置されていたテレビで、ふるさとの宮城県気仙沼市が消える姿を目の当たりにした。生島の生家は地元の漁師らが集う食堂で、祖母と母が味とのれんを守ってきた店だった。

タクシーの中で見たのは、気仙沼が火に包まれる映像です。……地獄絵図でしたね。妹の家も近いし、嫌な予感がしました

 はずれてほしい予感は的中してしまう。何度電話をかけても妹の携帯電話は不在を知らせるばかりで、そのうち、コール音も途絶えてしまった。

 週明けの月曜日、3月14日。

 普段に比べ、低いトーン、低いテンション……。生島は、妹夫婦と連絡が取れないことを、放送人として冷静に伝えていた。「無事であってほしい」という切なる祈りは、だが、届かなかった。半年後、妹は遺体で見つかった。義弟は今('21年3月31日現在)も行方不明のままだ。

生島の母・美知子さんと震災で亡くした妹の喜代美さん、ご友人・齋藤洋子さん(後ろ)
生島の母・美知子さんと震災で亡くした妹の喜代美さん、ご友人・齋藤洋子さん(後ろ)

 震災の約ひと月前、2月2日に、生島の母・美知子さんが85歳で亡くなっていた。妹夫婦が上京し、都内で納骨式を執り行う予定だった前日に、東日本大震災。妹夫婦とともに、母の遺骨も津波にのみ込まれてしまった。

 当時の父親の耐える姿は、息子の勇輝さんの目にも焼きついている。

「僕ら子どもの前では気丈に振る舞っていました。ラジオでは、リスナーの方の声に涙ぐんだりしていたこともありましたけど、公の場で泣いている姿は見たことがないんです。まったく泣き言を言わない父なので」

 淡々と日々の仕事をこなした後、生島が人知れず向かっていた安息の場所がある。一緒に旅行や食事に行くなど長年家族ぐるみの付き合いをしている齋藤洋子さん(70)の家だ。

 生島の妻と小学校から同級生だった洋子さんは「近くなんだけど、行っていい?」という電話の後に訪ねて来る生島の姿をよく覚えている。

「一生懸命感情を抑えて、ラジオの生放送をしていました。レストランや喫茶店など外で笑ったりしていたら、“生島さん笑ってた”とか言われるかもしれないでしょ。うちならその心配はないから。気分転換のために来て、リラックスしていましたね。感情をずっと抑えているって、苦しいじゃないですか」

 ほとんど酒も飲まず、タバコも吸わない生島は、ほうじ茶をすすりながら洋子さんとご主人(当時は動物病院の院長)と世間話をしてから帰途についたという。そこは生島にとってまぎれもなくシェルターで、誰のまなざしも気にしないサンクチュアリだった。