「趣味程度ですが、今も音楽活動を続けています。この20年間ずっと音楽漬けだったので、今は自分の好きなタイミングでやろうと、ペースダウンさせている感じですね」

 そう話すのは、1990年代後半に絶大な人気を集めたデュオ・19(ジューク)の元ボーカル・岡平健治だ。

 19は、1998年に岡平、岩瀬敬吾、イラストレーターの326(ミツル)の3人で結成され、セカンドシングル『あの紙ヒコーキ くもり空わって』は、100万枚を越える大ヒットになった。2002年の19解散後、岡平はバンド『3B LAB.☆』(後に3B LAB.☆Sに改名)を経て、現在はソロでの音楽活動のほか、スタジオの経営なども行なっている。

「20年以上、まとまった休みがなかったんです。ひとつのグループを長く続けていたら、1、2年休憩というのもあったと思いますが、19、パンクバンド、そしてソロと3変化したので、休む暇もなくリリースをしていましたね」

 19の歴史は、岡平と岩瀬が出会ったことから始まる。

「広島の音楽仲間の友達伝いで、岩瀬さんと知り合って一緒に音楽をやり始めました。そのときは『少年フレンド』というバンド名でした。東京に出てきてから、事務所やレコード会社に入って、どう売り出していこうかと考えたときに、絵を描いてくれる326さんが加入して、自然と結成していました」

「19」は岡平の年齢だった

 デュオ名の由来は?

「名前は326さんがすでに決めていて。“なんで数字なんだろう?”とは思っていました(笑)。19という数字は、年齢から取ったものですね。当時、僕が19歳、岩瀬さんが20歳で、326さんが21歳。19歳って、大人でも子どもでもない、だけど社会に出ている人もいる、学生もいる、成人していないからお酒は飲めない……。とにかく微妙な年齢が一番の青春、思春期じゃないかという話をしたのを覚えています。それで、健治が19歳だから19でいいんじゃないと

『紙ヒコーキ』の作詞は326、作曲は岡平と岩瀬が担当した。

「曲よりも詞が先にあったり、詞を後からチェンジしたり、すごく入り組んだ状態でごちゃごちゃだったと思います。詞は326さん、曲のベースは岩瀬さんが作ったんですが、足りない部分は僕がメロディーをつけたり、プロデューサーもアイデアを出したり、みんなで作っていきましたね。正直、最初は売れないと思っていました。僕が売れると思ったものは売れない、僕が売れないと思ったものは売れるんです(笑)」

 大ヒットの裏には、当時ならではの理由も。

「1999年の春に、『紙ヒコーキ』がTBS系列のキャンペーン・ソングに選ばれたんですが、当時の事務所の社長とTBSの会長がたぶん仲よしだったと思うんですよね。今は(SNSなどで)自分から発信できますが、当時は俳優でもミュージシャンでも、選ばれしラッキーな人しかデビューできない時代だった。

 だから、社長にはすごく感謝しています。『紙ヒコーキ』のヒットは、テレビやラジオへの積極的なプロモーションに加えて、僕らのファッションが女性誌でもよく特集されていたので、相乗効果で売れていったんだと思いますね」