すべてがたまたまパイオニアだっただけ

「長い取材だから話すことがなくなったらどうしよう」と言いつつ、2時間の取材時間中、話が止まることはなかった。声優・神谷明(76)撮影/山田智絵
「長い取材だから話すことがなくなったらどうしよう」と言いつつ、2時間の取材時間中、話が止まることはなかった。声優・神谷明(76)撮影/山田智絵
【写真】アイドルとして人気を集め、第2次声優ブームの牽引役となった頃の神谷明

 しかし、スラップスティックが脚光を浴びると、神谷はバンドを脱退。

「趣味なら失敗しても“あ、いけねぇ”で済んだけれども、プロとして活動すれば、それは通用しないから純粋に楽しめない。だから、“ゴメン、辞めさせて”って」

 バンドを辞めても神谷の人気はとどまるところを知らなかった。ラジオでは看板番組がつくられ、'79年には深夜放送『オールナイトニッポン(土曜2部)』で声優初のDJを務めた。アニソン以外の楽曲でレコードデビュー('79年・『マイ・ウェイ』)を果たした最初の声優も神谷。初めてワンマンショー('79年・日劇)を開催した声優も神谷。声優が活躍する場を、神谷はどんどん広げた。

あれよあれよという感じでしたけれども、すべてがたまたまパイオニアだっただけで、自分で道を切り拓いたという意識は全然ないんです。

 自分の実力と時代に合った仕事を運よくいただき、現場で育ててもらったというのが正直な思いです。まだガヤ(その他大勢)の役でいろいろな経験を積ませてもらっていたときは、現場に必ずたてかべ和也さんと肝付兼太さんがいらっしゃって……」

 大山のぶ代さんが主役を演じた『ドラえもん』シリーズで、たてかべさんはジャイアン役を、肝付さんはスネ夫役を担当した。駆け出しの神谷は、ジャイアンとスネ夫に弟分のようにかわいがられた。

「“こいつ、神谷っていうんだ、いいヤツだからヨロシクな!”って、本当に首根っこをつかんでみんなに紹介してくれるような感じでした。実は何十年もたってから、“どうしてあんなに僕に良くしてくれたんですか?”と、たてかべさんに聞いてみたことがあるんですよ」

 答えは、こうだった。

「おまえはな、子どものころから苦労してきただろ? そいつがどこまで頑張るか、オレは見たかったんだよ」