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ー 冒険家と女優の“二刀流”で活動

 

 7月9日に和泉雅子さんが都内の自宅で原発不明がんにより亡くなったことが、同月18日に公表された。

「和泉さんは14歳だった1961年に、映画の製作や配給を行う『日活』に入社して専属女優になりました。可愛らしいルックスで人気を集め、同じく日活の青春映画で活躍していた吉永小百合さん、松原智恵子さんと“日活三人娘”と呼ばれて、日活映画の全盛期を支えました」(スポーツ紙記者、以下同)

 女優として順調にキャリアを重ねていた和泉さんは、1983年に転機を迎える。

「テレビ番組のリポーターとして南極を訪れた際に、壮大な氷の世界に魅了された和泉さんは、北極点への挑戦を思い立ちます。それから1億円以上の費用を工面し、肉体トレーニングやソリの操縦といった技術を学ぶなどの準備を進め、2度目の挑戦となった1989年、日本人女性初の北極点到達に成功。名実共に冒険家となりました

 波瀾万丈の人生を送った彼女と長年交流を持っていた、子役出身の俳優である水野哲さんは、このように語る。

「1975年ごろ、10歳前後だった私は、和泉さんと同じ花柳流の日本舞踊教室に通っており、そこで仲よくなりました。和泉さんは親しみやすく、稽古が終わった後に、一緒にトランプをして遊んでもらいました。彼女の性格もよく知っていたので、冒険家に転身すると聞いたときは、そこまで驚きませんでした

冒険家と女優の“二刀流”で活動

1966年の和泉雅子さん。この年にリリースした『二人の銀座』は100万枚超のヒットに
1966年の和泉雅子さん。この年にリリースした『二人の銀座』は100万枚超のヒットに

 冒険家になってから女優としての活動が激減した和泉さん。水野さんによれば、彼女を取り巻く環境が大きかったようだ。

和泉さん自身は当初、冒険家と女優の“二刀流”で活動していきたいと考えていたようです。しかし、当時の芸能界は片手間に女優業をやるのは歓迎されませんでした。

 そのため一部の俳優は和泉さんに対していい印象を抱いていなかったので、芸能界に居づらくなったのかもしれません」(水野さん、以下同)

 和泉さんとは長年、年賀状のやりとりをずっと続けていたという水野さん。振り返ると2023年の正月に届いた年賀状が最後だった。

「以前、和泉さんと電話で話した際“芸能界ってややこしいし、面倒くさい”と話していました。女優としてやり残したことがあるような、わだかまりのような気持ちがあったのかもしれませんね。ただ、冒険家として全力で自分のやりたいことができたのですから、幸せな人生だったのだと思います」

 夢と冒険に生きた和泉さん。その思いは永遠に─。