目次
Page 1
ー 失明危機でも続投して完封勝利
Page 2
ー 名古屋出身も中日ファンではない

 中日の新監督に就任した工藤公康氏。選手・コーチとして中日に在籍した経験のない外部招聘は、1984年に就任した山内一弘氏以来、43年ぶり。就任会見で「地元への恩返し」を強調した、その知られざる「愛知時代」を振り返る。

 10月15日に名古屋市内で開かれた就任会見で、工藤氏は中日の監督を引き受けた理由について、「私も名古屋出身の人間で、子供の頃から野球をして、ドラゴンズっていう球団ももちろん知っていました」「名古屋の人に少しでも恩返しがしたいという気持ちを持って、ドラゴンズさんからの要請を引き受けたということです」と説明した。

 そんな工藤監督は、名古屋電気高校(現・愛知工業大学名電高校)でプロ野球選手への道を切り開いた。

「小学校では体操部、中学も最初はハンドボール部に所属していましたが、その身体能力の高さから、中学の先生に半強制的に野球部に入部させられたといいます。さらに大きな転機となったのが、中3の時に出会った学校の校務員さん。家庭の経済的な事情から高校進学を考えていなかった工藤監督ですが、社会人野球の経験のあったこの人物が『いい球投げるね』と声をかけ、特待生として入れる高校を探してくれたそう。工藤監督もこの出会いがなければ、その後の野球人生はなかったと述懐しています」(スポーツ紙記者)

失明危機でも続投して完封勝利

 高校時代の工藤氏を語るうえで外せないのが、元巨人・槙原寛己(大府高校)とのライバル関係だ。元中日・浜田一夫(愛知高校)とともに「愛知三羽ガラス」と呼ばれた。

「槙原氏は2年の夏と3年の春、工藤監督は3年の夏にそれぞれ甲子園に出場しています。直接対決では、工藤監督が槙原氏からホームランを放って勝利。あまり知られていませんが、槙原氏もこの試合で工藤監督からツーベースとヒットの2安打を放っています。槙原氏がスタンドで観戦して鮮烈に覚えていると語っていたのが、愛知大会での東邦戦。工藤監督は右目の上に死球を受けて大量出血。医者から失明の可能性もあると告げられたものの続投し、4安打完封を記録しています。さらに、甲子園では長崎西を相手に16三振の快投。金属バッド導入後初のノーヒットノーランを達成しました」(スポーツライター)