三津五郎葬儀
 2月25日、都内にある青山葬儀所で営まれた10代目坂東三津五郎さんの告別式。市川海老蔵や木村拓哉などの著名人のほか一般のファンを含め約5000人が参列した。

「父の芸というのは、誰にでもマネできるような小さな努力を、誰にもマネできないほど膨大な数を積み重ねた先にあるひとつの究極の形だったのではないかと思います」

 喪主の挨拶をした長男の坂東巳之助は父の芸への執念を冒頭のように述べた。

 三津五郎さんは’13 年9月にすい臓がんの摘出手術を受けるも、昨年2月には舞台に復帰。だが、9月に肺への転移が発見されてからは治療に専念していた。

「今年の2月上旬には、自宅でテレビ番組の収録を行うなど体調はよかった。ですが、2月17日に急変すると、21日に帰らぬ人となってしまったのです」(スポーツ紙記者)

 ‘12 年には中村勘三郎さんが57歳で死去。その翌年には市川團十郎さんが66歳で亡くなるなど、歌舞伎界では大物役者の逝去が続いていた。

「若いころから三津五郎さんは勘三郎さんと一緒に、梨園に新しいお客さんを取り込もうと努力してきた。彼らが若手だったころの観客といえば、お金も時間もある年配の方々ばかり。だから、お年寄りに厳しい真夏の8月は客が来ないので、歌舞伎座公演は行われていなかったんです」(芸能レポーター・石川敏男氏)

 そんなとき、2人は松竹に掛け合って若手中心の興行を歌舞伎座で行ったという。

「しかも、通常の昼と夜の2部制から3部制にし、最後の回は午後6時スタートにした。それがウケて今まで足を運ばなかった若い女性がたくさん押しかけたんです。現在、海老蔵などの若手がいろいろ挑戦できるのも、間違いなく三津五郎さんたちが道を切り開いてきたおかげです」(芸能レポーター・石川敏男氏)

 高校時代には2人だけで寝台特急に乗り、趣味のお城巡りをしたという三津五郎さんと勘三郎さん。

「この2人に共通しているのは、女性にモテたこと。だから、若い女性がお客についてくれたんです。勘三郎さんもいろいろ浮名を流したけど、三津五郎さんも負けてなかった。だって、若いころは当時の名前である八十助にかけて“ハメ助”っていうあだ名だったから(笑い)。弔辞で尾上菊五郎さんが“彦根城も好きだけど、ホステス嬢もキャバクラ嬢も好きだった”って言って場を和ませたのも、ヤンチャで愛された三津五郎さんを関係者はみんな知っていたからですよ」(梨園関係者)