'69年に『女子登攀クラブ』を作り、7000m級のアンプルナⅢ峰へ。

「女同士だと、トイレも着替えも気兼ねがありませんし、肉体的、精神的に楽でした。登頂に成功したときの“私たち、女同士でやれたのよ!”という喜びはすごく大きかったです。その成功を喜んだ夫は“次は8000m級を狙え”と言ってくれました。エベレストです。もちろん、費用もかかりますから、準備に4年を費やしました。予算は約4300万円」

 しかし、企業に寄付を募るも断れまくったという。

「“女だけなんて、無理に決まっている”と。最終的にテレビ局や新聞社が手を差しのべてくれたときはうれしかったですね。エベレストを目指す『日本女子登山隊』のメンバーは15人。私は副隊長でした。夜、ベースキャンプのテントで寝ていると、巨大雪崩に襲われて絶望的な状況になりましたが、私たちはあきらめませんでした」

 チームで行っても、エベレストの頂上に全員が立てるわけではなく、ひとりだけ。

「隊長が登頂者を最終キャンプで指名するんです。それが私だったのは、たまたま高山病に鈍かったからかな(笑い)。だから、エベレスト登頂に成功したと言っても、私は肉体的に頂上に立っただけ」

 みんなの協力があったからこそ、と強調する。

「自分ひとりでは絶対にできないことなんです。みんなの力があって、本当にいろんな人の協力があったからこそ。でもマスコミは“田部井淳子”の名前を出さないと気がすまず、それにすごく抵抗がありました。私は、今でも“あれは隊全体で登りました”と思っていますし、常々そう言っています」

 エベレストに登ったときは、すでに3歳の娘がいた田部井さん。

「準備期間中、娘を置いて集会に行かなくてはならないときも、夫は“行くな”とは決して言わなかったですね。山で出会った夫ですから。万が一、私が遭難死しても、うろたえず処理してくれるだろうと選んだ相手です」

 夫の理解なしでは、成し遂げられなかった偉業だ。

「ただ、私が海外遠征を視野に入れ始めたときは“子どもは産んで行けよ”と言ったくらいで(笑い)。実母や姉、果ては姉のお姑さんにまで世話になりながらの登山でしたが、やっぱり夫の理解のおかげで、思う存分やれたのだと思います。感謝しています」

 '12年、がんで余命3か月の診断を受けた田部井さん。しかし、幸いにして現在も山に登れている。

「大変ですよ。抗がん剤の副作用の影響で、手はしびれるし、足はむくむし。それでも歩けば、風景は変わっていく。私はたとえ、肉体的にはつらくても、10歳のときに那須岳で体験した、あのキラキラとした瞬間に何度でも出会いたい」

 最後に夢を聞くと、こんな答えが。

「世界各国の最高峰に登りたいと思っています。今、国連に加盟している国が193か国で、76か国の最高峰は登りました。でも、まだ半分にも届いてないんですよ(笑い)」