20160322_sinsai_4

「鉛筆1本、箸1本でもいいから息子の遺品を見つけられないかと、閖上のまちを毎日さまよい歩きました。とうとう何も見つけられないまま2か月がたち、気づけば真っ平らな景色が開けていました」

 語り部の声が部屋に響く。聴衆の中には、目に涙を浮かべながらそっと頷く人もいる。声の主は丹野祐子さん(47)。

 震災で住民の約6分の1、750名が犠牲となった宮城県名取市の閖上で被災し、義理の両親と最愛の息子、公太くん(当時13)を失った。

 家族を奪った津波は数千軒の家々をものみ込み、まちは更地になった。自宅も流された。あの日、2人は公民館のグラウンドにいた。

「目の前まで津波が迫り公民館の2階に駆け上がった時には公太を見失っていました。次に会えたのは2週間後、遺体安置所で棺を開けたとき。公太はいないのに自分は生き残った。罪悪感で毎日毎日、“死んだほうが楽になれる”と……」

 眠れない日々が続き、いつしか笑い方も忘れてしまった。誰かに縋りたい一心で、祐子さんはその年の6月、夫、娘と暮らす仮設住宅から一番近い心療内科の門を叩いた。

 診療にあたった医師は公太くんの死を悼んで大粒の涙を流し祐子さんをねぎらった。

「“共に頑張ろう”と泣いてくれた先生に、何でも話せるようになっていきました。“息子や犠牲者が生きた証を残したい”と胸の内を話すと、語ることをすすめてくれました」

 祐子さんは公太くんの母校、閖上中学校で犠牲になった生徒14人の遺族らと遺族会を結成。遺族会は'12年3月11日、14人の名前を刻んだ慰霊碑を建てた。

 翌月、慰霊碑を守る社務所として近くの更地に「閖上の記憶」というプレハブ小屋が設立された。祐子さんは同年5月からこの場所で、語り部活動を続けてきた。

「設立から丸4年になりますが、6万人以上の人が訪れ、あの日のことを知ろうとしてくれたのがうれしい。この先まちの復興が進んでも、恐ろしい津波によってたくさんの尊い命が失われた事実はずっと忘れてほしくないんです」

 慰霊碑に彫られた“丹野公太”という名を優しくなでながら、祐子さんは目を細める。慰霊碑の前に立ったときは、「いい天気ね」「今日はこんな人が来てくれたよ」と、公太くんとの会話を楽しむという。

――公太くんは、どんなお子さんだったんですか?

 記者が尋ねると、祐子さんはゆっくりと遠くを見た。

「私、公太の声が思い出せないんです。親バカだから学芸会も運動会もビデオに撮りためていたのに、全部流されちゃった。声って聞けなくなっちゃうとわからなくなるんだなあって。

 表情も泣き顔や怒り顔もあったはずなのに浮かんでくるのは幼少時のニコニコ顔だけ。部屋や引き出しの中は今でも覚えているのに。肝心なことが思い出せないの」

 自分と同じ悲しみは、もう誰にも味わってほしくない。

「今は“震災後”ではなく次の“震災前”かもしれないし、もっと恐ろしい人災が起こるかもしれない。この場所で、命の尊さを感じながら、そのことを伝え続けていけたら。当たり前の日常って、奇跡なんですよね。命と代償に、息子が教えてくれました」

 丹野さんは現在、スーパーでパート勤めをしている。記者が訪れた日も、「小松菜95円です!」と休憩なしで4時間売り込んできたという。

「今はね、語れる場所があり、支えてくれる仲間もいて幸せです。私は息子に“勉強しろ”“部屋片づけなさい”と、口うるさい母親でした。もしかしたら“あ~、お母さんまたあんなにしゃべっているよ”って怒られるかもしれない。いつかまた会えたときに……」