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 戦国時代きっての戦略家・真田信繁(幸村)のドラマチックな生涯を描くNHKの大河ドラマ『真田丸』。高視聴率をたたき出しているこの話題作をきっかけに、戦国時代に改めて興味をもったという人も多いのでは。

 戦国時代は、生まれ育ちも年功序列も関係ない、天下取りを目指した血沸き肉躍るドラマチックな時代。そんな時代を生き抜いた百戦錬磨、手練手管の戦国武将は、ひとりの人間としても魅力的なエピソードが数多い。学校で習った歴史の裏側にある、武将たちの素顔に迫った。

 勇猛果敢な戦国武将は、きっと男性ホルモンのテストステロンが豊富だったのだろう、子どもの数も多ければ、側室や妾も数多い。いまも伝わる戦国武将の「下半身伝説」とは?

・政略結婚のために信長には22人の子が

 織田信長と言えば、森蘭丸たち小姓との男色話ばかりが注目を集めているが、実は女性も大好き。正室の濃姫にこそ子どもができなかったものの、信長には男子11人、女子11人、合わせて22人も子がいた。人生50年の時代に、こんなに子どもをつくったのだから女嫌いであるはずがない。

 しかし、信長の子づくりにはわけがある。政略結婚のための駒が欲しかったのだ。子どもたちはみな、男子は有力武将や公家の娘をもらい、女子は嫁いだり、側室になったりした。これもすべて「天下布武」のためなのか。

・“お嬢様好み”で天下統一を図った秀吉

 “英雄、色を好む”を地でいくのが豊臣秀吉。しかも、身分の高い女性ばかりを狙う“上淫好み”。淀殿(浅井長政の娘で信長の姪)、三の丸殿(信長の娘)、加賀殿(前田利家の娘)、松の丸殿(京極高次の妹)、備前殿(宇喜多直家の未亡人)など、そうそうたるメンバーをそろえていた。

 多くの武将が秀吉に側室を送って恭順の意を示そうとしたので、身分の高い娘が集まったと言う説もあるが、キンピカ成金趣味の秀吉は、生来“お嬢さま好み”だったに違いない。おかげで、あまり戦をせず天下統一を成し遂げることができた!?

・家康の女性の好みはあるときを境に真逆に

 15人いた側室のうち3人が元使用人、5人が未亡人。「健康で丈夫な子どもを産める」ことを第一に考えたのが徳川家康。ブランドでは人を選ばない現実主義者だといえる。

 ところが、この家康、「関ヶ原の戦い」を機に好みが一変。60代に差しかかり新たに迎えた側室は4人いるが、お万の方は36歳、お梅の方が30歳、お奈津の方が35歳、お六の方にいたっては19歳と孫のような年齢である。とても同一人物には見えない。「家康影武者説」を唱える人の根拠でもある。

・美女軍団を率いた信玄も病には勝てず

 正室の三条夫人、側室の禰津夫人、油川夫人、諏訪夫人をはじめ、いずれも近隣に鳴り響いた美女ばかりをそろえたのが甲斐の武田信玄。信玄の美女好みは父・信虎の血を受け継いだものとみられる。

 美貌に魅せられると略奪同然のやり方で側室にした父と同じく、側室のひとりの諏訪夫人も、父の諏訪氏(信玄の義弟)をだまし打ちの末に滅ぼして側室に迎え入れたのだ。戦国武将ナンバーワンの美女軍団をそろえた信玄だが、そのやり方を祟られたのか、天下を望んだ直後に、病を得て無念のうちにこの世を去った。

・生涯不犯の誓いを立てた謙信

 「生涯不犯」の誓いを立てたと言われる上杉謙信。同性愛という説があるが女性との色恋ざたも残されている。例えば上杉家の重臣の娘に身の回りの世話をさせ、敵の娘・伊勢姫の美貌に魅せられ側室にしようとしたり……。

 謙信が生涯独身を貫いたいちばんの理由は、母の影響から真言宗に帰依し、肉食と妻帯を戒め、真言の戒律を固く守り、戦勝を祈願するためだったと言われるが、真相は謎だ。

イラスト/高木一夫

参考資料/『戦国武将ものしり事典』(奈良本辰也監修/主婦と生活社)、『本能寺の変四二七年目の真実』(明智憲三郎著/プレジデント社)、『秀頼脱出』(前川和彦著/国書刊行会)、『家康は関ヶ原で死んでいた』(島右近著/竹書房新書)