無駄にしたくない橋本選手の死

 訃報を聞いたとき、蝶野は何かの間違いではないかと思った。亡くなる少し前に会ったとき、会社経営のゴタゴタなのか、顔色があまりにも悪いのが気になった。どうして何もしてあげなかったのか。助けられなかったことに悔いが残った。

 身体を痛めつけて仕事をしている以上、ある年齢にくればレスラーの誰もがケガや不調に苦しむ。古傷が悪化し、プロレス選手としては一線から退き始めた蝶野は新しい生き方を模索していた。私生活では幼稚園の送り迎えをする2児の父親として、仕事ではコメンテーターやタレント業にも進出した。年末の『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』スペシャルではビンタをする怖いおじさん、昨年まで出演していた『Let’s天才てれびくん』では教官として、子どもたちにも知られる存在となった。

 そんなある日、救命救急の出張講習を知った。興味を持って受講してみると、東京消防庁の人から「このAEDという止まった心臓を動かす医療機器が駅などにあるんだけど、使い方がわかる人が少なくて。広報に協力してもらえないか」という。

 もし、こうした救命救急の知識が一般の人に広がれば、助かる人も増えるのではないか。とたんに橋本選手の顔が浮かんだ。気がつけば、「俺でよければ人寄せパンダになります」と申し出ていた。

 救命救急を教えてくれた東京消防庁OBの中島敏彦さん(70)に、財団法人を立ち上げ、AEDの普及や地域の消防団の応援を本格的にやっていきたいと、蝶野が相談したのは、それから間もなくのことだった。

「僕とはひとまわり以上、年は違うんです。けれども人の命を助けたい、弱い人を守りたいという熱い気持ちは同じ。蝶野は、自分は社会に育てられたから社会的な責任を果たしたいという。生半可な売名行為ではないことはわかったので、“やるならば、非営利でやりなさい”と伝えました

 中島さんを相談役に迎え、2014年にニューワールドアワーズ スポーツ救命協会を立ち上げた蝶野は、どんなに小さな地方のイベントでも、積極的に参加しPRを行っている。静かに活動していたため、あまり知られていないが、選手時代から老人ホームへ慰問したり、東日本大震災では被災地に駆けつけ被災者を励ますなど、社会貢献への関心はもともと高かった。

東京国際フォーラム『キッズフェスタ親子で学ぼうAED大講習会』に特別講師として参加 写真提供:アリストトリスト
東京国際フォーラム『キッズフェスタ親子で学ぼうAED大講習会』に特別講師として参加 写真提供:アリストトリスト
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「ある日、蝶野のお姉さん、お兄さんがやってきて僕に言うんです。正洋をよろしくと。昔、ヤンチャだったけど、まともな人間になって本当によかった、と。もう蝶野は50歳過ぎなんですけど、まだ心配なんでしょう(笑)。実は繊細な男ですよ。周りのことをよく見ているんです。亡き橋本選手の息子、今は父の遺志を継いでプロレスラーになった大地君と4人でバイキングに行ったときも、“こら、自分の分だけ取るな! 中島さんにも持ってこい!”と叱っていましたが、実子同様、父親代わりなんでしょう」(中島さん)

 今までのプロレスラーがやらなかったことを、次々と実現していく蝶野の背中は、後輩にとって大きな目標になるだろう。しかし、蝶野は言う。生きていて、ずっと自信なんてなかった、と。絶望や孤独といった人生の冬は何度も経験したし、調子がいいときも不安でしかたなかった。

 しかし、これだけは知っている。痛みを知れば知るほど、強くなればなるほど、人は人に優しくなれる。プロレスはただのスポーツではない。強ければいいわけでもない。プロレスとは自分の人生を見せる場所。苦しみも喜びも痛みも。その生きざまに人は感動し、勇気をもらい、明日への一歩を踏み出す。

 リングを降りた蝶野だが、人々に優しさと強さと勇気を与えるプロレスラーの信念はいつまでも変わらない。今よりもっといい世の中へ。次の世代へつなぐ希望の種を蝶野は今日も蒔いている。

取材・文/白石あづさ

しらいしあづさ◎日本大学芸術学部卒業後、地域誌の記者に。3年間、約100か国の世界一周を経てフリーに。グルメや旅雑誌などへの執筆のほか、週刊誌で旅や人物のグラビア写真を発表。著書に『世界のへんな肉』(新潮社)、『世界のへんなおじさん』(小学館)がある。