コンプレックスの塊
五輪取材が転機に

 アナウンサーを目指したのは就職活動中。金融、商社、メーカーなど受ける中、選択肢のひとつがテレビ局だった。

大下容子アナウンサー 撮影/矢島泰輔
すべての写真を見る

「自分が何に向いているのか、何をしたいのかもわかりませんでしたので、いろいろな業種の方にお話を聞きました。アナウンサーは、試験が進むに従って執着心が湧き、どうせ落ちるなら悔いなくやりたい、そして、試験を受ける中で友達になった丸ちゃん(丸川珠代/アナウンサーから参議院議員に転身)に“アナウンサーになって一緒に頑張ろうよ!!”と言われたひと言で、現実的に取り組むことができました」

 難関のアナウンサー試験に合格し、丸川と同期アナに。他局には雨宮塔子(TBS)、角田久美子(日本テレビ)、八塩圭子(テレビ東京)らがいた。

「みんながキラキラして見えました。アナウンサー研修ではいちばん下手で、広島弁のアクセントが抜けず、地味でコンプレックスの塊でした。とにかく練習しかない。華やかさを追い求めてもないものねだり。自分の与えられた仕事に最善を尽くすしかない。仕事ぶりでみなさんに信頼されるアナウンサーになるしかないな、と思うようになりました」

 アナウンサーのターニングポイントに、’98年の長野冬季、2000年のシドニー夏季と2度の五輪取材をあげた。

昔からスポーツが好きで、五輪取材は夢でしたから宝物のような体験で、アナウンサー冥利に尽きると感じました。競技はもちろんですが、街の様子や人々との会話など、ちょっとしたことが新鮮で楽しくてたまらなかったので、寝不足も全然、苦にはならなかったです」

 サッカー好きで、’98年のサッカーW杯に日本が初出場したときには、開催地のフランス・トゥールーズで自身の企画を実現させた。

振り返ってみると’98年は、私にとって大きな年だったと思います。2月に長野五輪、6月にサッカーW杯、そして10月にワイドスクランブルの担当になりました。

 夏ぐらいまではスポーツモードだったので、ワイドショーは予想外でした。先輩に相談したら、ワイドだから幅広くニュースを扱い、スポーツもそのひとつだ、と言われて納得しました。専門分野があるわけでもなく、広く興味があるタイプなので、今となっては、ワイドショーは向いていたのかなと思います」